2010/11/22

リバタリアリズムと分析業務に隔たる矛盾

アマゾンの「オススメ」機能は、顧客の行動履歴から未来の需要を予測している。
何故こんなことをするかと言えば、もちろん利益をあげるためだ。
言い換えれば、利益を生む効果的なマーケティングには、顧客の行動履歴に基づく需要予測が必要だ(少なくともアマゾンはそうしている)、ということだ。

***

ところで、今のところ日本やアメリカはリバタリアンの国であり、個人(法人)における選択の自由と責任が重視されている。

***

行動履歴の分析を通したマーケティングは、個人(ターゲット顧客)の選択は過去の歴史に依存するという前提がなくては成り立たない。

利益最大化を至上命題とするリバタリアンたる法人が顧客分析を行い、それが一定の効果をあげているという事実は、多くの個人はリバタリアン足り得ないということを示しているのではないか。

つまり自身の選択は限りなく自由に見えて、その実、行動履歴に束縛されているのではないか。

あるいは、分析により行動が誘導されるのではないか。

2010/11/21

バートランド・ラッセル

–––いかなるひとも、恩寵によらなければ罪より解き放たれないが、
(中略)
いかなる人間も神の助力を受けるに値するはずはない。

否定神学

バートランド・ラッセル「西洋哲学史」、トマス・アクィナスのところ

以下引用 pp-450

***

(トマス・アクィナス著「反異教徒汎論」について)
神について多くの事をいいうるのであるが、それらは全てある意味において、否定的な主張である。すなわち神の本性というものは、神がこうこうではない、ということを通してわれわれに知られるに過ぎない。

***

ああでもない、こうでもない、というように否定的に神を定義することを、否定神学と呼ぶ・・・と東浩紀や佐藤優は言っていた。ホントか、と思ったらラッセルの著作にも同じような記述があるので、割とオーソドックスな考え方なのかもしれない。

東浩紀が否定神学に拘る理由は、彼の著作「存在論的、郵便的」によれば、ジャック・デリダの脱構築が否定神学を否定するものだから、だそうだ。
それに対して佐藤優の否定神学の興味は、ロシア正教の神に対する考え方が否定神学だからだ(文学界に載っていた)。彼はその考えに賛同している。

***

ところで、否定神学的にしか定義し得ない対象とはなんだろうか?
恐らくは、言語で捉えられない対象だろう。

2010/11/19

佐藤優を読んで2

佐藤優「国家論」

宗教と啓示について。
神は人間とは全然別ものなので知覚できない。人間の側からいくら考えてもだめで、神からの啓示によらなければならない。宗教という形で神(「神」は分からないので、まことの神でありまことの人であるキリスト)を良く知るよう心がけるのは、神の気まぐれであるところの啓示をキャッチするチャンスをつかむ為だ。

ということだけれど、これは人事を尽くして天命を待つということだろうか。

「平等は人の心の中に」というロシア人の言葉。
平等を実現することは無理だけれど、それは究極の憧れとして人の心の中にある。

無理だと分かっていつつ、それに向かって行くということ。やるだけやった後は人間の領域(因果関係のある領域)じゃねーや神様サイコロ振ってね!という態度。ぼくもそうありたいものです。

でもそれほど簡単ではない。リターンがゼロだと知りつつ努力することは簡単では無い。

この前環境系の先輩とこういう話をした。
「おれたちは二酸化炭素を数え上げてごはんを食べているけれど、だからなんだって訳じゃないんだ。環◯研の温暖化シミュレーションなんて嘘で。意味はない。それでもやるのは、二酸化炭素を数えているうちは、まだ環境は改善できるかもしれないっていう幻想をみんなでみることができるから。何やっても無駄だと嘆くよりなんぼかましです」

ここから得られる教訓は、究極的には無意味と分かっていても、何かの改善のため(?)考えたり、勉強したりすることは、精神衛生上好ましい、ということか。

2010/11/08

偶像崇拝はなんでだめなのか?

佐藤優「国家論」

何故偶像崇拝してはいけないのか。
前提として、神は人間には感知できない。人間の属するシステムの外側に存在する。
偶像は神を模して作られたものを指す。偶像崇拝は、その「模して作られたもの」に対する信仰を指す。しかし、その崇拝は可知(システム内)の神に対する崇拝であり、不可知(システム外)の神への崇拝では無い。よって偶像崇拝は偽りの信仰であり、神の不興を買うことになる。

2010/10/20

東浩紀を読んで

批評家東浩紀はオタクカルチャー批評、ゼロアカ道場、ニコニコ動画に出演など、一見パフォーマンスに終始している印象を受けるが、彼の博士論文「存在論的、郵便的」を読むと、そのパフォーマンスは彼の「哲学」を実践する上での戦略なのかな、と思えてくる。

2010/09/06

批評の試み3

インポテンツのユートピア : イノセンス

 ロマンティシズムとイノセンスの関連を考える上で大切なのはイノセンスそのものではなく、イノセンスへの憧憬だ。なぜなら不可能なものへの憧憬こそがロマンティシズムなのだから。

 イノセンスが不可能である理由は、その不可逆性にある。イノセンスは時間が経つにつれてすり減ってゆくものであり、回顧できこそすれ取り戻すことはできない。

 ではロマンティシズムの対象として、何故イノセンスが選ばれるのだろうか?イノセンスを憧憬する動機とはなんだろうか?

 「不能感」がそうさせるのだ。 どこに行っても、なにをしてもシステムに覆われ底が知れている現実の世界において、あらゆる行為はシステムの内側に収まってしまうため、行為もまた底が知れている。底の知れたものをロマンティシズムの対象とすることは出来ない。あらゆる行為を軽蔑し、見限ったとき、「自分はただ見ているだけしかできない」という不能感が募ってゆく。

 イノセンスは、現実の世界で拭い去ることのできない不能感を全て許す場所として、想像の世界に立ち上がってくる。それゆえ、求めずにはいられない不可能な対象として「不能な私のゆるされる場所=イノセンス」を志向する、と考えられる。

 ところで、イノセンスを感じさせる物語(見ているだけの物語)には、「ライ麦畑で捕まえて」、「リリィ・シュシュのすべて」「限りなく透明に近いブルー」等があるが、不能感に苛まれるのは大抵男、あるいは男性的な女性だけであり、女の子(女の子的な男?)は遥かに逞しく現実の世界と折り合いをつけてゆくようだ。
 しかし「限りなく透明に近いブルー」のリュウは黒い鳥(=システム)を殺そうとするし、あまつさえ決して見ることの出来ない世界本来の姿を映そうとする。この意味で、「限りなく透明に近いブルー」はとてもロマンチックな作品だ。

2010/09/05

批評の試み2

ロマンとイノセンス

参考:ロマン主義

 ロマン主義の起源は、古典主義や教条主義の否定に遡る。一般、公、規則、システムよりも、個を重視したいという思いがロマン主義の始まりだった。自分はロマン主義の本質は「現状否定」にあると考える。その起源においても、古典、教条に縛られる「現状」を「否定」している働きを見る事が出来る。

 しかし、ロマン主義的否定は決して叶えられてはならないものだ。ロマン主義はあくまで個人的なものであり、その否定が完成して公的になった対象は、もはやロマン主義の対象にはなり得ない。

 以上から、ロマン主義を、「不可能な事柄の不可能性を知った上で投企する態度」と考える(村上春樹「海辺のカフカ」より)。叶えられることのない現状否定こそロマン主義だ。その性質から、ロマン主義は必ず悲劇を孕む。

 村上龍「限りなく透明に近いブルー」における「リュウの都市」は想像の世界(想像界)であり、その幻想は飛行機のジェット=現実の世界(象徴界)に破壊される。リュウの都市は現実を積極的に否定してはいないが、個人的なものが現実に破壊される場面はまさにロマン主義的と言える。

 作中に何度かリュウの「子供のようなまなざし」が言及されている。ここから、「リュウの都市」がイノセンスを象徴していると考えられる。とすれば、

 「リュウの都市」=想像の世界=イノセンス=ロマン主義の対象

 このことは、イノセンスの不可能性を示している。

2010/09/04

批評の試み1

ラカンのシェーマRSIを村上龍「限りなく透明に近いブルー」に適応する

参考:現実界・象徴界・想像界

・三つの世界

 限りなく透明に近いブルーは三つの世界が描かれている。仮にそれを想像の世界(想像界)、現実の世界(象徴界)、*世界*(現実界)と名付ける。想像の世界=リュウの都市、現実の世界=黒い鳥に覆われた世界、*世界*=ありのままの世界。
物語は、想像の世界が現実の世界に破壊され、絶望の渕にたたされたリュウが限りなく透明に近いブルーを通して*世界*を見る、という構成になっている。想像の世界はとても個人的なものであり、対する現実の世界はパブリックなものだ。

・二つのレンズ

 物語において、黒い鳥はレンズのような働きをしている。それは*世界*を「現実の世界」に変換する役割を果たしている。そして限りなく透明に近いブルーは、黒い鳥のレンズで歪められた*世界*(現実の世界)を、もとに戻して、*世界*本来の姿で見る特殊なレンズである。

・想像世界対現実世界

 黒い鳥に覆われた世界は、想像の世界を破壊するような力を持つ。物語内ではリュウの都市(想像の世界)を飛行機のジェット(現実の世界)が破壊する描写がなされる。
黒い鳥とは、システムのようなものだ。なので現実の世界とは、システムに覆われた世界を表している。村上春樹における綿谷昇(ねじまき鳥クロニクル)や壁(世界の終わりとハードボイルドワンダーランド)に相当する。システムとは具体的には、学校、会社、経済、就職活動、社会、言語、等。
 現実の世界の本質はシステムなので、意思を持っていない。現実の世界は、想像の世界を「そんなものあってもなくてもどうでもいい」というように、象がアリを踏みつぶすように悪意無く破壊することがある。
 例えば、自分の好きな音楽をやって食べて行こうという思考が想像の世界で、結局売れないとかいうのが現実の世界である。この二つの世界の戦いには、鶏と卵のような側面がある。現実の世界へのカウンターとして想像の世界が生まれる事が考えられる。J・K・ローリングがハリーポッターのようなファンタジー(想像の世界)を書いたのは、恐らく生活の困窮(現実の世界)へのカウンターという側面もあっただろう。

・物語が生まれる場所

 個人的な事柄VS世界の不条理という図式は良くあることで、やはり想像の世界と現実の世界のせめぎ合いから物語は生まれる(生まれ易い)のだと思う。そして、優れた強い物語は現実の世界の圧力を取り込んでさらに大きくなる想像の世界の働きから生まれるのだ、と思う。

・おまけ:*世界*は見えるか

 ありのままの世界は見る事は出来ないはずだ。例えば、人間は言語を獲得したその時から言語の内部でしか考えることが出来ない。(言語=システム、黒い鳥)どこかに言語で表せないことがあるかもしれないが、言語を用いて思考する限りそれが「あるかどうかも分からない」。

2010/06/22

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2010/06/20

重油とガラス

村上龍 「限りなく透明に近いブルー」を読んで

世界の悪意(無意味さ、不条理さ、何でもいい)に耐えられないから、心の中に秩序を作る。それは都市であったり、城であったりする。あるいは友達同士のなれ合いだったりもする。

ある時、都市は破壊される。
圧倒的な現実の力の前には、個人のささやかな秩序など全くとるに足らないものだった。想像力は吸い尽くされ、代わりに重油が満たされる。

しかし破壊の瞬間に、青白く透明になった世界が現れる。透き通った世界の奥に、白い曲線が見える。あれは何だろう?

絶望の中の生と死の臨界、虚無感の中の朝と夜の境界。限りなく透明に近いブルーはその一瞬だけ、世界を油の皮膜の様に覆う「黒い鳥」=「悪意」を透かし、世界の優しさを映し出す。

2010/06/05

文系のヘタレは女の子に敵を倒してもらおう!

思想地図 vol4、戯言シリーズ、ねじまき鳥クロニクル、その数学が戦略を決める、宮台真司の「真理の言葉、機能の言葉」等の感想

1. 女の子に敵を倒してもらう
戯言シリーズのいーちゃんは自分は口先三寸で何もしない。女の子に敵を倒してもらう。
ねじまき鳥クロニクルにおいてラスボスは主人公の妻クミコによって倒される。そのとき主人公は井戸に潜ってホテルがどうとか壁がどうとか意味不明なことを言っている。

2. ワインの値段
経済学者オーリー・アッシェンフェルターは統計と数学モデルによってワインの値段をデータに基づいて決めようとした。つまり専門家のテイスティングによって主観的に決まる価値とは違う指標を用いた。

3. 文学部、哲学科。あるいは社会学科
マルクス主義を学んで何になる。芥川龍之介を研究して将来何の役にたつ。就職どうしよう。

4. 考察
数理的な知に対して、人文学的な知、というものは、現実社会に置いて無力というほかない、と思われてきた。実際芥川龍之介の憂鬱は就活生の自己目的化した憂鬱に衒学的色彩を添えることしかできないだろう。先のワインの値段も、結局はオーリーの数理的手法が、専門家の感性(笑)を凌駕したのだった。
しかし人文学的な知は市場において無力ではない。ワインの値段が専門家によって「不当に高く」評価されていたのは、その「人文学的な知」、つまりワイン市場とそれに携わる人の歴史や経験、正確に言えば歴史や経験によって消費者に伝わるワイン業界が文化的に優れていて大枚をはたくだけの価値があると思わせる何か、によってレバレッジがかかっていたからだ。
「草原に吹く風のような味・・・」
ばかばかしい戯言にすぎない。しかし、それは価値を生む言葉。
しかしカリスマの無い人間の言葉は他人を動かせない。そこで人文的な知に信頼性を担保してもらう必要がある。まるで敵を女の子に倒してもらういーちゃんや綿谷昇のように。
それはどこまでも衒学的なものにとどまるかもしれない。しかし学者志望で無ければそれでいい。もしも「人生における目標のようなもの」があるならば、マルクスでも芥川でも詩的表現でも何でも使って言葉にレバレッジをかけ続け、それに近づいていけばいい。

2010/05/17

善悪のかなた

NPO 言論責任保証協会 というものがある。
以前、関係者の教授の下で資料集めを手伝っていた。
その教授は(左翼系知識人的な正義感を持って?)世の中の「あたかも真実の様に宣伝された嘘」を集め、いつか「ウソの博物館」を作ろうとしている。

学会にお邪魔した時、いわゆるニセ科学の書籍を大量に展示していた。(教授曰く、表紙のデザインが似ているとのこと)この手の本はすぐ書店から姿を消してしまうので、ブックオフで購入するそうだ。

その中にアガリクスの本があった。アガリクスとはガンが治るというキノコだ。もちろん根拠は無い。
ページをめくると、びっしりと赤線が引いてあった。教授のものでは無く、購入者のものだった。

2010/05/02

新聞

毎日新聞の元記者と話す機会があった。
佐々木俊尚が「新聞社は高コスト体質だ」って言ってたので、それってほんと?と聞いた。

曰く、日本の新聞の特徴として、細かな配達網があるけれど、実は新聞の販売店と新聞社は同じ会社ではない、ということ。インフラ=販売店、ソフト制作=新聞社、というイメージ。
つまりこれ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%81%9E%E8%B2%A9%E5%A3%B2%E5%BA%97

で、この販売店の維持にかかるお金が高コストだということらしい。
もちろん別会社なので、それもおかしな話なんだけど、実際こんなニュースもある。(「押し紙」でなく補助金に注目)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/100428/trl1004282253005-n1.htm

この話は内定先の社長もしていた。日経電子新聞が4000円なのは1000円とかで売っちゃうと誰も紙新聞の「配達」を頼まなくなり、販売店がつぶれるから、と。

新聞電子化の効用は色々あるけど、流通コストが下がるっていうのが大きい。
そのとき新聞社達が販売代理店を守るように、つまり日経のように、電子新聞の価格を高く設定するなら、その時は配信プログラムの書ける人がベンチャー新聞社を立ち上げるチャンスかもしれない。

2010/04/30

印象

来年からベンチャー企業で働きます。自分と同じ方向を向いていると感じたので就職しました。
社員も資本も少なく、吹けば飛ぶような会社です。野生の感が必要です。最後の一年は、農耕民族で無く狩猟民族としてのトレーニングを積みます。判断を間違えたら死んじゃうかもしれません。でもそれが普通なのかもしれません。

以下、就職活動で印象に残った他人の言葉
1.イケメンばかりのベンチャーに大手コンサルを一年で辞めて入社したイケメン
・やっぱりねえ、ベンチャーは楽しいよ。手作り感?っていうの?
・英語は出来た方がいいよ!成功率が3倍くらい違うよ。
・なんでコンサルが新卒採用してるか分かる?よく考えてみなよ。何のプロフェッショナルでも無いやつがコンサルで採用なんて、変だと思わない?

2.製鐵会社から社内留学でオックスフォードに行った白髪のシブいおじさん
・金融はカタギではないね。
・金融との打ち合わせの時は灰皿出さないよ。飛んでくるからね!hahaha!
・ビジネスはスポーツだよ。フェアに戦って勝ったらお金もらうんだよ・・・とはいえ、営業はかなり際どい事もやるよ。

3.航空会社の頭の切れそうな喋り方をする人事
・航空業界に入れば将来安泰かというとそんな事は全くありません。
・弊社は二期連続で赤字です。来年はどうしたって黒字を出さねばなりません。そうしないと信用を失い、資金調達できなくなります。黒字化は急務です。
・入社式は飛行機格納庫で行います。

2010/03/31

微笑ましいこと

ちょっと前、野菜サラダをもらった。
でもぼくはドレッシングを持っていないので、オリーブオイルと塩で食べた。
貧乏学生みたいだな、と思ったけれど、結構おいしかった。

後日、サークルの追いコン。フランスに行ったさんごちゃんがイーグルさんと話していた。その会話をポールちゃんが立ち聞きした。曰く、
「フランスでサラダを食べたらオリーブオイルと塩がかかっていました!」
とのこと。

ぼくが貧乏学生気分でやっていたことはフランスではよくあることだったというお話。
それ以来、サラダはオリーブオイルと塩で食べている。

2010/03/25

試験3

三月も末だと言うのに冷たい雨が降っている。
坂を上り、大使館のすぐ隣のビルへ。入った瞬間のタバコの匂い。お粗末な壁の修理。旧式のトイレ。帝国データバンクの社員であれば、50点以上の評点は付けないだろう。

試験時間5分程前に面接会場に通され、待つ。15分待った頃に、試験監督二人現れる。
一人は営業の偉い人。魅力的な悪人顔をしている。もう一人は分析官。分析官は一次試験の時に面接をした方だった。
二人に何度も来て頂いてすみません、と言われる。しかしそんな事を言われても困る。こちらは好きで来ている。
研究内容と志望動機を聞かれる。この質問は三回目だ。

一通り喋り終えると、営業が私の喋り方に対する評価をする。
「アレコレこうで、こういう喋り方だね。ところで、ふだんどんな感じで友達と喋っているの?」

普段の喋り方?言われてみれば、意外と知らない。

その後は営業の営業話に終始した。彼はパワーのある、引きつけられる喋り方だった。製鐵会社の最適化システムを褒めちぎっていた。
分析官は暇を持て余しているようだった。私は隙を見て営業に質問した。すると、逆質問が帰って来た。

「つまり、問題は在庫管理なのですか?」
「そうじゃないんだ。どう思う?」

左手の窓に目を移して10秒くらい考えた。最初の5秒は、人は考える時、対象から目をそらすんだな、という事を考えていた。

私が「最後の質問」をし、営業がそれについて喋り倒し、そのうち脱線して目的を見失ない、分析官が助け舟を出し、「そうだったねうわっはっは」といったところで試験は終了となった。エレベーターまで案内され、中に入り、どうもありがとうございました、といって頭を下げる。エレベーターの扉が閉まるまで、頭を上げてはいけない。

扉が閉まり、頭を上げる。のど飴をなめながら帰る。

2010/03/18

ねじまき鳥クロニクル

いま、ねじまき鳥クロニクルという村上春樹の小説を読み返している。
まさにちょうど一年前、この小説を読んだ。
休学を決意し、一年間どう過ごすか考えている時期だった。無根拠な自信と無根拠故の不安が入り交じっていた。

その日は友人の家に泊まっていて、朝日で目が覚めた。でも友人は眠っていて、起こすのも何だからテーブルの上にあったねじまき鳥クロニクルの一巻を窓の光で読んだ。
その部屋は汚かった。安っぽい小さなこたつの上に空のレトルト袋が乗っていた。袋から直接食べたようだ。床には色々なものが散らばっていた。思い出せないけれど。
でもそれはノスタルジーを伴う汚さで、悪くなかった。

そういう状況でねじまき鳥クロニクルを読んで、それから一年が経った。
そして今同じ小説を読んでいる。
本の内容は変わらない。でも、その他は何もかも変わってしまったような気がする。

2010/03/11

リリィ・シュシュのすべて

この映画は、素晴らしいが好きではない。嫌だが嫌いではない。つまらないがとても貴重な気がする。

星野というキャラクターが、田んぼの中でヘッドフォンを耳に音楽を聴きながら突然叫ぶシーンがある。しかし、観客(私)には、星野の叫びはまさに彼の聴いている「音楽」に遮られて聞こえない。

彼の叫びは(自ら作った?)壁の囲いの中に反響するのみで、誰にも伝わることは無い。抜き差しならなくなった人間の孤独がそこに現れている。

2010/03/10

ショーシャンクの空に

見た直後はあんまりいい映画だと思わなかったけど、最近気になってきたので感想メモ


・何事も無理だと思わないこと。
・毎日努力を続けること。
・日常をそつなくこなすこと。
・秘密を人に言ってはいけない。

主人公が雨に向かって両手を広げるシーンはとてもよかったです。

2010/03/08

試験2

30分前に着く。エントランスに飾ってある絵を見る。
小学2年生の描いた、ゴッホのような羊の絵がある。

時間に待ち合わせ場所に行くと、私の他に女の子が居た。
彼女はしきりに緊張しています、と言っていたがそうは見えなかった。

ソファで待っていると人事が来る。
控え室に案内されると、他に1名男性が待っていた。最終に残ったのが二人だけなら行けるだろう、と思っていたが落胆した。

後で分かることになるが、全部で6名程いた。

控え室での時間はとても長く感じた。
やがて男性が呼ばれ、女の子が呼ばれ、私一人になった。

自由に飲んでいいと言われたキリンビバレッジのウーロン茶を飲んだ。
ポケットに手を突っ込んで14階の窓から外を眺めた。曇っている。寒々しい。
パイプ椅子に座って塩野七生のマキアヴェッリ語録を読む。
「・・・天も、自ら破滅したいと思う者は、助けようとはしないし、助けられるものでもないのである。」


人事来る。


荷物を置き、面接会場へ。


技術部の重役と人事。合計6名。
それぞれ自己紹介をする。その度によろしくお願いしますと言う。


今日読んだ新聞記事を話す。
「・・・市長にさんざん厳しい質問をしておいて最後に「彼はシャイだ」で落とす。さすが朝日です。」


「最後に自己アピールをして下さい」
「つまり、私は「いいおとこ」になりたいんです・・・」


15分程。厳しく追及されるかと思ったが、意外と和やかに、すぐに終わった。しかし、言いたい事はあまり言えなかった。合格している自信はない。


終了後に健康診断へ。
この会社は、古びているとはいえ、本社の中に医療施設を備えている。驚く。
内科医や看護士等のスタッフも専属のようだ。


身長体重や視力測定を行う。普通の健康診断だ。ただ、色覚検査があったのは、業界特有だと思った。
採血もされる。これでふらふらになってしまった。
しばらく横にさせてもらう。体が冷たくなり、神経が静かに波うっている。
親知らずを抜く時に吸わされた笑気ガスの感覚に似ている。


やがて落ち着き、残りのメニューをこなして、帰る。

試験1

受付の電話で人事室に来訪の旨を伝える。
すぐに人事来る。前もいたお姉さんだ。入り口の赤いソファでしばらく待つよう言われる。
左手の部屋では、イギリス帰りらしい男が「コミュニケーション能力」という言葉を使って自身のコミュニケーション能力をアピールしている。

人事来る。

まず控え室に通される。二次試験の対応をしてくれた長身の人事が試験の説明をする。
「私が入ったら、少し待ってノックしてから入って下さい」
いったい何の意味があるのか分からなかったが、言われた通りにする。

部屋に入ると、自分の椅子と向かい合う様におじさん達が座っている。全部で5人。中央に社長。例の若い男性は左隅。

挨拶をし、自己PRや志望動機といった基本的な事を聞かれる。
途中、髪が長い、話が固い、等と言われる。

これ終わったら美容院いって来ます!
そうなんですよー私愛嬌なくて・・・なんかいい方法ないですかね?

等と答える。おじさん達笑う。
結局面接は私に対するダメ出し大会、つまりどうすれば愛嬌でるかという話題に終止した。

後で気付いたが、私は二次試験の時に「自分は殆ど怒らない」と言ったので、それを試されていたのかもしれない。

最後、見送りにきた長身の人事に約一週間後に合否連絡します、と言われる。
そうですか、と言って帰る。

2010/02/28

問題は、

アイデンティティというよくわからないものは誰かの影響や、時代によっても変わるし、お腹が減ったかどうか、いらいらしているかによっても変わるし、決してその人を規定する程堅牢な物ではない。

就職する為には会社への共感が必要、と感じる。
その為に真面目に自己分析をしている人は大勢いるとおもう。
でも自己分析は行動履歴の参照でしかなくて、客観性はない。やがては無限の循環に陥ってしまう。

アイデンティティなんかそもそも無い、下らん。しかしそういったメタ視点を保ち続けていれば、システムに所属する事が出来ない。システムは思想の一致を要求する。それが出来なければ、捨てゼリフと共にメタへ、メタのメタへ、メタのメタのメタへ、上昇し続けるしか無い。
しかし、空の高みの空気は薄い。私達が地を這う社会的動物であることを忘れてはならない。
市場システムに接続してその効率の恩恵を授かる為には、どこかで幻想にコミットしなければならない。あくまで主体的に。
あくまで主体的に、それが問題。

2010/02/14

歩くこと2

カフェインの無いコーヒー
移動時間の無い旅
妊娠の無い性交
アディクションの無い麻薬
死者の無い戦争

2010/02/08

感謝

つくばエクスプレスでは何度か大切なものを置き去りにした。
しかし財布も携帯も戻ってきた。
駅員、拾ってくれた人、本当にありがとうございます。

2010/02/06

歩くこと

土地がつながっている、ということは当たり前だけれど、意外と実感がわかない。
都会の狂騒と田舎の虚無は物理的に繋がっている。
しかし特急電車を使っていては、その連続的な変化には気づかない。
歩かないとわからないことは確かにあるのだろう。でもそれが何かはわからない。

2010/02/02

暫定的な投稿

就職活動は、自分の複雑さ、なんだかよく分からない可能性を収束させる作業で、それは自由が強制される現在では自らの行動履歴への参照によってなされるけれど、忘れてはならないのが、決してその参照のうちに第三者が現れ最終的な審級を下す訳ではない、ということ。だから行動履歴への参照は無限参照にならざるを得ず、大学という就職予備校で客観的視点の大切さを学んだ私達は、その無限鎖の果てにある選択は原理的に永遠の暫定性を帯びる事を知っている。あらゆる自己決定はこれでよかったのか?という疑問符を付けざるを得ない。


1.
この無限の鎖を断ち切りたい。それはどのようにしてなされるか?
それは社会システムによってなされる。
それは暴力によってなされる。

社会システムは暴力の一部であるのか、暴力は社会システムの一部であるのか、それはよくわからない。

2.
暫定的な決定を下し続けた私達は、いつか仮定法過去に追いつめられる