2010/09/06

批評の試み3

インポテンツのユートピア : イノセンス

 ロマンティシズムとイノセンスの関連を考える上で大切なのはイノセンスそのものではなく、イノセンスへの憧憬だ。なぜなら不可能なものへの憧憬こそがロマンティシズムなのだから。

 イノセンスが不可能である理由は、その不可逆性にある。イノセンスは時間が経つにつれてすり減ってゆくものであり、回顧できこそすれ取り戻すことはできない。

 ではロマンティシズムの対象として、何故イノセンスが選ばれるのだろうか?イノセンスを憧憬する動機とはなんだろうか?

 「不能感」がそうさせるのだ。 どこに行っても、なにをしてもシステムに覆われ底が知れている現実の世界において、あらゆる行為はシステムの内側に収まってしまうため、行為もまた底が知れている。底の知れたものをロマンティシズムの対象とすることは出来ない。あらゆる行為を軽蔑し、見限ったとき、「自分はただ見ているだけしかできない」という不能感が募ってゆく。

 イノセンスは、現実の世界で拭い去ることのできない不能感を全て許す場所として、想像の世界に立ち上がってくる。それゆえ、求めずにはいられない不可能な対象として「不能な私のゆるされる場所=イノセンス」を志向する、と考えられる。

 ところで、イノセンスを感じさせる物語(見ているだけの物語)には、「ライ麦畑で捕まえて」、「リリィ・シュシュのすべて」「限りなく透明に近いブルー」等があるが、不能感に苛まれるのは大抵男、あるいは男性的な女性だけであり、女の子(女の子的な男?)は遥かに逞しく現実の世界と折り合いをつけてゆくようだ。
 しかし「限りなく透明に近いブルー」のリュウは黒い鳥(=システム)を殺そうとするし、あまつさえ決して見ることの出来ない世界本来の姿を映そうとする。この意味で、「限りなく透明に近いブルー」はとてもロマンチックな作品だ。