モーターサイクルダイアリーズ
・無鉄砲な正義感は人を惹き付ける
・10近く歳の離れている男同士で旅をする事に違和感を感じた
・南米ではダンスが社交になっているのか
ハウルの動く城
・BGMが良かった
・星の子の書き方が呪術的。子供は怖かったのでは
エヴァ序
・震災後の世紀末感にとてもあっていた
・使徒が死んだ時の虹の演出が良い
・クレジットにも虹のモチーフが使われていてよい
・宇多田さんの歌は良いが、歌詞は違和感がある
エヴァ破
・シンジくんがイケメンキャラだった
2011/03/09
プロとコントラ
大審問官とは、カラマゾフの兄弟「プロとコントラ」にてイワンの口から語られる小説内小説。
大審問官(枢機卿)とキリストの考えの違いについての話。
大審問官は人間への愛故に民衆を支配し、彼らを救う。「オレらに従えば、パンにありつけるよ」
キリストは人間への愛故に民衆に自由を与える。そして、信仰表明(Yes Christ)した者を救う。「あなた達(の信仰)は自由だ。それでも私を信じるなら、世界の終わりに救われる」
「地上のパンか、天上のパンか?」がテーマ。これはかなり宗教的だが、もう一段さげて
「支配か、自由か?」と考えると、とても普遍的なテーマであるように思う。
大審問官の台詞で印象的なもの。
「選択の自由という恐ろしい重圧におしひしがれた人間達が〜(略)〜お前の真実にも異議を唱えるようになる」
「自由というあれほど恐ろしい贈り物を受け入れることができなかったからといって、このか弱い魂のどこが悪いというのか?」
自由は弱い人間、つまり、何を為すべきか自分で策定できない人間にとって苦痛であると言う。これはとても身近な問題だ。
例えば就職活動。
リクナビに登録すれば、眼前には7000〜8000の企業がずらりと並ぶ。自由に選べ。普通の人はそんなことできっかよ!と異議を唱えることとなる。
「プロとコントラ」流に言えば、リクルートはキリスト的だ。
迷える就活生が「Recrute the Christ」と信仰表明したところで彼らは地上のパンも天上のパンも保証することはないだろう。それは無責任ではない。彼らは神の子ではない。
電通広告年鑑09-10・インタラクティブ・メディアの項には、情報の自由化によりユーザーの負担が増加したのでそれらの秩序化が必要だ、と書かれている。
リクルートとは逆の方向性だ。
大審問官(枢機卿)とキリストの考えの違いについての話。
大審問官は人間への愛故に民衆を支配し、彼らを救う。「オレらに従えば、パンにありつけるよ」
キリストは人間への愛故に民衆に自由を与える。そして、信仰表明(Yes Christ)した者を救う。「あなた達(の信仰)は自由だ。それでも私を信じるなら、世界の終わりに救われる」
「地上のパンか、天上のパンか?」がテーマ。これはかなり宗教的だが、もう一段さげて
「支配か、自由か?」と考えると、とても普遍的なテーマであるように思う。
大審問官の台詞で印象的なもの。
「選択の自由という恐ろしい重圧におしひしがれた人間達が〜(略)〜お前の真実にも異議を唱えるようになる」
「自由というあれほど恐ろしい贈り物を受け入れることができなかったからといって、このか弱い魂のどこが悪いというのか?」
自由は弱い人間、つまり、何を為すべきか自分で策定できない人間にとって苦痛であると言う。これはとても身近な問題だ。
例えば就職活動。
リクナビに登録すれば、眼前には7000〜8000の企業がずらりと並ぶ。自由に選べ。普通の人はそんなことできっかよ!と異議を唱えることとなる。
「プロとコントラ」流に言えば、リクルートはキリスト的だ。
迷える就活生が「Recrute the Christ」と信仰表明したところで彼らは地上のパンも天上のパンも保証することはないだろう。それは無責任ではない。彼らは神の子ではない。
電通広告年鑑09-10・インタラクティブ・メディアの項には、情報の自由化によりユーザーの負担が増加したのでそれらの秩序化が必要だ、と書かれている。
リクルートとは逆の方向性だ。
2011/02/15
村上隆と理念について
村上隆 「芸術起業論」
村上隆さんはとてもしたたかな人だ、とぼんやりと思っていた。しかしそれは、こっぱずかしいとも言える人生上の問題から–––おれって何なんだろう、とくよくよ悩む中高生のような、沢山の人が素通りしてしまうようなものがエンジンとなっている。
自分も薄々気付いておきながら素通りしそうになっていたが、理念というのは、ある種のひとびと、コーヒーを好んだり、本を横向きに積み上げる癖があったり、自分の悩みと宇宙の大きさを比べておれはなんとちっぽけなんだと考えた次の瞬間に俺は自分を騙してはいないか?と疑うようなひとびとには大事なのだと思う。
理念の設定に正誤は無い。あくまで立場の問題だ。人参は食べるがピーマンは拒否する、というのと変わらない。
なので理念設定は自分の欲望に従うのが自然だ。しかしそれは易々と見えるものでは無い。村上隆は自分を追い込むことで理念が根源的な欲求と繋がっているか何度も確認している。
その根源的な欲望を達成する為には何だってやれよ、ということだ。
この本を読んで、村上春樹のねじまき鳥クロニクルの戦時中に井戸に放り投げられた男を思い出した。
村上隆さんはとてもしたたかな人だ、とぼんやりと思っていた。しかしそれは、こっぱずかしいとも言える人生上の問題から–––おれって何なんだろう、とくよくよ悩む中高生のような、沢山の人が素通りしてしまうようなものがエンジンとなっている。
自分も薄々気付いておきながら素通りしそうになっていたが、理念というのは、ある種のひとびと、コーヒーを好んだり、本を横向きに積み上げる癖があったり、自分の悩みと宇宙の大きさを比べておれはなんとちっぽけなんだと考えた次の瞬間に俺は自分を騙してはいないか?と疑うようなひとびとには大事なのだと思う。
理念の設定に正誤は無い。あくまで立場の問題だ。人参は食べるがピーマンは拒否する、というのと変わらない。
なので理念設定は自分の欲望に従うのが自然だ。しかしそれは易々と見えるものでは無い。村上隆は自分を追い込むことで理念が根源的な欲求と繋がっているか何度も確認している。
その根源的な欲望を達成する為には何だってやれよ、ということだ。
この本を読んで、村上春樹のねじまき鳥クロニクルの戦時中に井戸に放り投げられた男を思い出した。
2010/11/21
否定神学
バートランド・ラッセル「西洋哲学史」、トマス・アクィナスのところ
以下引用 pp-450
***
(トマス・アクィナス著「反異教徒汎論」について)
神について多くの事をいいうるのであるが、それらは全てある意味において、否定的な主張である。すなわち神の本性というものは、神がこうこうではない、ということを通してわれわれに知られるに過ぎない。
***
ああでもない、こうでもない、というように否定的に神を定義することを、否定神学と呼ぶ・・・と東浩紀や佐藤優は言っていた。ホントか、と思ったらラッセルの著作にも同じような記述があるので、割とオーソドックスな考え方なのかもしれない。
東浩紀が否定神学に拘る理由は、彼の著作「存在論的、郵便的」によれば、ジャック・デリダの脱構築が否定神学を否定するものだから、だそうだ。
それに対して佐藤優の否定神学の興味は、ロシア正教の神に対する考え方が否定神学だからだ(文学界に載っていた)。彼はその考えに賛同している。
***
ところで、否定神学的にしか定義し得ない対象とはなんだろうか?
恐らくは、言語で捉えられない対象だろう。
以下引用 pp-450
***
(トマス・アクィナス著「反異教徒汎論」について)
神について多くの事をいいうるのであるが、それらは全てある意味において、否定的な主張である。すなわち神の本性というものは、神がこうこうではない、ということを通してわれわれに知られるに過ぎない。
***
ああでもない、こうでもない、というように否定的に神を定義することを、否定神学と呼ぶ・・・と東浩紀や佐藤優は言っていた。ホントか、と思ったらラッセルの著作にも同じような記述があるので、割とオーソドックスな考え方なのかもしれない。
東浩紀が否定神学に拘る理由は、彼の著作「存在論的、郵便的」によれば、ジャック・デリダの脱構築が否定神学を否定するものだから、だそうだ。
それに対して佐藤優の否定神学の興味は、ロシア正教の神に対する考え方が否定神学だからだ(文学界に載っていた)。彼はその考えに賛同している。
***
ところで、否定神学的にしか定義し得ない対象とはなんだろうか?
恐らくは、言語で捉えられない対象だろう。
2010/11/08
偶像崇拝はなんでだめなのか?
佐藤優「国家論」
何故偶像崇拝してはいけないのか。
前提として、神は人間には感知できない。人間の属するシステムの外側に存在する。
偶像は神を模して作られたものを指す。偶像崇拝は、その「模して作られたもの」に対する信仰を指す。しかし、その崇拝は可知(システム内)の神に対する崇拝であり、不可知(システム外)の神への崇拝では無い。よって偶像崇拝は偽りの信仰であり、神の不興を買うことになる。
何故偶像崇拝してはいけないのか。
前提として、神は人間には感知できない。人間の属するシステムの外側に存在する。
偶像は神を模して作られたものを指す。偶像崇拝は、その「模して作られたもの」に対する信仰を指す。しかし、その崇拝は可知(システム内)の神に対する崇拝であり、不可知(システム外)の神への崇拝では無い。よって偶像崇拝は偽りの信仰であり、神の不興を買うことになる。
2010/10/20
2010/09/06
批評の試み3
インポテンツのユートピア : イノセンス
ロマンティシズムとイノセンスの関連を考える上で大切なのはイノセンスそのものではなく、イノセンスへの憧憬だ。なぜなら不可能なものへの憧憬こそがロマンティシズムなのだから。
イノセンスが不可能である理由は、その不可逆性にある。イノセンスは時間が経つにつれてすり減ってゆくものであり、回顧できこそすれ取り戻すことはできない。
ではロマンティシズムの対象として、何故イノセンスが選ばれるのだろうか?イノセンスを憧憬する動機とはなんだろうか?
「不能感」がそうさせるのだ。 どこに行っても、なにをしてもシステムに覆われ底が知れている現実の世界において、あらゆる行為はシステムの内側に収まってしまうため、行為もまた底が知れている。底の知れたものをロマンティシズムの対象とすることは出来ない。あらゆる行為を軽蔑し、見限ったとき、「自分はただ見ているだけしかできない」という不能感が募ってゆく。
イノセンスは、現実の世界で拭い去ることのできない不能感を全て許す場所として、想像の世界に立ち上がってくる。それゆえ、求めずにはいられない不可能な対象として「不能な私のゆるされる場所=イノセンス」を志向する、と考えられる。
ところで、イノセンスを感じさせる物語(見ているだけの物語)には、「ライ麦畑で捕まえて」、「リリィ・シュシュのすべて」「限りなく透明に近いブルー」等があるが、不能感に苛まれるのは大抵男、あるいは男性的な女性だけであり、女の子(女の子的な男?)は遥かに逞しく現実の世界と折り合いをつけてゆくようだ。
しかし「限りなく透明に近いブルー」のリュウは黒い鳥(=システム)を殺そうとするし、あまつさえ決して見ることの出来ない世界本来の姿を映そうとする。この意味で、「限りなく透明に近いブルー」はとてもロマンチックな作品だ。
ロマンティシズムとイノセンスの関連を考える上で大切なのはイノセンスそのものではなく、イノセンスへの憧憬だ。なぜなら不可能なものへの憧憬こそがロマンティシズムなのだから。
イノセンスが不可能である理由は、その不可逆性にある。イノセンスは時間が経つにつれてすり減ってゆくものであり、回顧できこそすれ取り戻すことはできない。
ではロマンティシズムの対象として、何故イノセンスが選ばれるのだろうか?イノセンスを憧憬する動機とはなんだろうか?
「不能感」がそうさせるのだ。 どこに行っても、なにをしてもシステムに覆われ底が知れている現実の世界において、あらゆる行為はシステムの内側に収まってしまうため、行為もまた底が知れている。底の知れたものをロマンティシズムの対象とすることは出来ない。あらゆる行為を軽蔑し、見限ったとき、「自分はただ見ているだけしかできない」という不能感が募ってゆく。
イノセンスは、現実の世界で拭い去ることのできない不能感を全て許す場所として、想像の世界に立ち上がってくる。それゆえ、求めずにはいられない不可能な対象として「不能な私のゆるされる場所=イノセンス」を志向する、と考えられる。
ところで、イノセンスを感じさせる物語(見ているだけの物語)には、「ライ麦畑で捕まえて」、「リリィ・シュシュのすべて」「限りなく透明に近いブルー」等があるが、不能感に苛まれるのは大抵男、あるいは男性的な女性だけであり、女の子(女の子的な男?)は遥かに逞しく現実の世界と折り合いをつけてゆくようだ。
しかし「限りなく透明に近いブルー」のリュウは黒い鳥(=システム)を殺そうとするし、あまつさえ決して見ることの出来ない世界本来の姿を映そうとする。この意味で、「限りなく透明に近いブルー」はとてもロマンチックな作品だ。
2010/09/05
批評の試み2
ロマンとイノセンス
参考:ロマン主義
ロマン主義の起源は、古典主義や教条主義の否定に遡る。一般、公、規則、システムよりも、個を重視したいという思いがロマン主義の始まりだった。自分はロマン主義の本質は「現状否定」にあると考える。その起源においても、古典、教条に縛られる「現状」を「否定」している働きを見る事が出来る。
しかし、ロマン主義的否定は決して叶えられてはならないものだ。ロマン主義はあくまで個人的なものであり、その否定が完成して公的になった対象は、もはやロマン主義の対象にはなり得ない。
以上から、ロマン主義を、「不可能な事柄の不可能性を知った上で投企する態度」と考える(村上春樹「海辺のカフカ」より)。叶えられることのない現状否定こそロマン主義だ。その性質から、ロマン主義は必ず悲劇を孕む。
村上龍「限りなく透明に近いブルー」における「リュウの都市」は想像の世界(想像界)であり、その幻想は飛行機のジェット=現実の世界(象徴界)に破壊される。リュウの都市は現実を積極的に否定してはいないが、個人的なものが現実に破壊される場面はまさにロマン主義的と言える。
作中に何度かリュウの「子供のようなまなざし」が言及されている。ここから、「リュウの都市」がイノセンスを象徴していると考えられる。とすれば、
「リュウの都市」=想像の世界=イノセンス=ロマン主義の対象
このことは、イノセンスの不可能性を示している。
参考:ロマン主義
ロマン主義の起源は、古典主義や教条主義の否定に遡る。一般、公、規則、システムよりも、個を重視したいという思いがロマン主義の始まりだった。自分はロマン主義の本質は「現状否定」にあると考える。その起源においても、古典、教条に縛られる「現状」を「否定」している働きを見る事が出来る。
しかし、ロマン主義的否定は決して叶えられてはならないものだ。ロマン主義はあくまで個人的なものであり、その否定が完成して公的になった対象は、もはやロマン主義の対象にはなり得ない。
以上から、ロマン主義を、「不可能な事柄の不可能性を知った上で投企する態度」と考える(村上春樹「海辺のカフカ」より)。叶えられることのない現状否定こそロマン主義だ。その性質から、ロマン主義は必ず悲劇を孕む。
村上龍「限りなく透明に近いブルー」における「リュウの都市」は想像の世界(想像界)であり、その幻想は飛行機のジェット=現実の世界(象徴界)に破壊される。リュウの都市は現実を積極的に否定してはいないが、個人的なものが現実に破壊される場面はまさにロマン主義的と言える。
作中に何度かリュウの「子供のようなまなざし」が言及されている。ここから、「リュウの都市」がイノセンスを象徴していると考えられる。とすれば、
「リュウの都市」=想像の世界=イノセンス=ロマン主義の対象
このことは、イノセンスの不可能性を示している。
2010/09/04
批評の試み1
ラカンのシェーマRSIを村上龍「限りなく透明に近いブルー」に適応する
参考:現実界・象徴界・想像界
・三つの世界
限りなく透明に近いブルーは三つの世界が描かれている。仮にそれを想像の世界(想像界)、現実の世界(象徴界)、*世界*(現実界)と名付ける。想像の世界=リュウの都市、現実の世界=黒い鳥に覆われた世界、*世界*=ありのままの世界。
物語は、想像の世界が現実の世界に破壊され、絶望の渕にたたされたリュウが限りなく透明に近いブルーを通して*世界*を見る、という構成になっている。想像の世界はとても個人的なものであり、対する現実の世界はパブリックなものだ。
・二つのレンズ
物語において、黒い鳥はレンズのような働きをしている。それは*世界*を「現実の世界」に変換する役割を果たしている。そして限りなく透明に近いブルーは、黒い鳥のレンズで歪められた*世界*(現実の世界)を、もとに戻して、*世界*本来の姿で見る特殊なレンズである。
・想像世界対現実世界
黒い鳥に覆われた世界は、想像の世界を破壊するような力を持つ。物語内ではリュウの都市(想像の世界)を飛行機のジェット(現実の世界)が破壊する描写がなされる。
黒い鳥とは、システムのようなものだ。なので現実の世界とは、システムに覆われた世界を表している。村上春樹における綿谷昇(ねじまき鳥クロニクル)や壁(世界の終わりとハードボイルドワンダーランド)に相当する。システムとは具体的には、学校、会社、経済、就職活動、社会、言語、等。
現実の世界の本質はシステムなので、意思を持っていない。現実の世界は、想像の世界を「そんなものあってもなくてもどうでもいい」というように、象がアリを踏みつぶすように悪意無く破壊することがある。
例えば、自分の好きな音楽をやって食べて行こうという思考が想像の世界で、結局売れないとかいうのが現実の世界である。この二つの世界の戦いには、鶏と卵のような側面がある。現実の世界へのカウンターとして想像の世界が生まれる事が考えられる。J・K・ローリングがハリーポッターのようなファンタジー(想像の世界)を書いたのは、恐らく生活の困窮(現実の世界)へのカウンターという側面もあっただろう。
・物語が生まれる場所
個人的な事柄VS世界の不条理という図式は良くあることで、やはり想像の世界と現実の世界のせめぎ合いから物語は生まれる(生まれ易い)のだと思う。そして、優れた強い物語は現実の世界の圧力を取り込んでさらに大きくなる想像の世界の働きから生まれるのだ、と思う。
・おまけ:*世界*は見えるか
ありのままの世界は見る事は出来ないはずだ。例えば、人間は言語を獲得したその時から言語の内部でしか考えることが出来ない。(言語=システム、黒い鳥)どこかに言語で表せないことがあるかもしれないが、言語を用いて思考する限りそれが「あるかどうかも分からない」。
参考:現実界・象徴界・想像界
・三つの世界
限りなく透明に近いブルーは三つの世界が描かれている。仮にそれを想像の世界(想像界)、現実の世界(象徴界)、*世界*(現実界)と名付ける。想像の世界=リュウの都市、現実の世界=黒い鳥に覆われた世界、*世界*=ありのままの世界。
物語は、想像の世界が現実の世界に破壊され、絶望の渕にたたされたリュウが限りなく透明に近いブルーを通して*世界*を見る、という構成になっている。想像の世界はとても個人的なものであり、対する現実の世界はパブリックなものだ。
・二つのレンズ
物語において、黒い鳥はレンズのような働きをしている。それは*世界*を「現実の世界」に変換する役割を果たしている。そして限りなく透明に近いブルーは、黒い鳥のレンズで歪められた*世界*(現実の世界)を、もとに戻して、*世界*本来の姿で見る特殊なレンズである。
・想像世界対現実世界
黒い鳥に覆われた世界は、想像の世界を破壊するような力を持つ。物語内ではリュウの都市(想像の世界)を飛行機のジェット(現実の世界)が破壊する描写がなされる。
黒い鳥とは、システムのようなものだ。なので現実の世界とは、システムに覆われた世界を表している。村上春樹における綿谷昇(ねじまき鳥クロニクル)や壁(世界の終わりとハードボイルドワンダーランド)に相当する。システムとは具体的には、学校、会社、経済、就職活動、社会、言語、等。
現実の世界の本質はシステムなので、意思を持っていない。現実の世界は、想像の世界を「そんなものあってもなくてもどうでもいい」というように、象がアリを踏みつぶすように悪意無く破壊することがある。
例えば、自分の好きな音楽をやって食べて行こうという思考が想像の世界で、結局売れないとかいうのが現実の世界である。この二つの世界の戦いには、鶏と卵のような側面がある。現実の世界へのカウンターとして想像の世界が生まれる事が考えられる。J・K・ローリングがハリーポッターのようなファンタジー(想像の世界)を書いたのは、恐らく生活の困窮(現実の世界)へのカウンターという側面もあっただろう。
・物語が生まれる場所
個人的な事柄VS世界の不条理という図式は良くあることで、やはり想像の世界と現実の世界のせめぎ合いから物語は生まれる(生まれ易い)のだと思う。そして、優れた強い物語は現実の世界の圧力を取り込んでさらに大きくなる想像の世界の働きから生まれるのだ、と思う。
・おまけ:*世界*は見えるか
ありのままの世界は見る事は出来ないはずだ。例えば、人間は言語を獲得したその時から言語の内部でしか考えることが出来ない。(言語=システム、黒い鳥)どこかに言語で表せないことがあるかもしれないが、言語を用いて思考する限りそれが「あるかどうかも分からない」。
2010/06/20
重油とガラス
村上龍 「限りなく透明に近いブルー」を読んで
世界の悪意(無意味さ、不条理さ、何でもいい)に耐えられないから、心の中に秩序を作る。それは都市であったり、城であったりする。あるいは友達同士のなれ合いだったりもする。
ある時、都市は破壊される。
圧倒的な現実の力の前には、個人のささやかな秩序など全くとるに足らないものだった。想像力は吸い尽くされ、代わりに重油が満たされる。
しかし破壊の瞬間に、青白く透明になった世界が現れる。透き通った世界の奥に、白い曲線が見える。あれは何だろう?
絶望の中の生と死の臨界、虚無感の中の朝と夜の境界。限りなく透明に近いブルーはその一瞬だけ、世界を油の皮膜の様に覆う「黒い鳥」=「悪意」を透かし、世界の優しさを映し出す。
世界の悪意(無意味さ、不条理さ、何でもいい)に耐えられないから、心の中に秩序を作る。それは都市であったり、城であったりする。あるいは友達同士のなれ合いだったりもする。
ある時、都市は破壊される。
圧倒的な現実の力の前には、個人のささやかな秩序など全くとるに足らないものだった。想像力は吸い尽くされ、代わりに重油が満たされる。
しかし破壊の瞬間に、青白く透明になった世界が現れる。透き通った世界の奥に、白い曲線が見える。あれは何だろう?
絶望の中の生と死の臨界、虚無感の中の朝と夜の境界。限りなく透明に近いブルーはその一瞬だけ、世界を油の皮膜の様に覆う「黒い鳥」=「悪意」を透かし、世界の優しさを映し出す。
2010/06/05
文系のヘタレは女の子に敵を倒してもらおう!
思想地図 vol4、戯言シリーズ、ねじまき鳥クロニクル、その数学が戦略を決める、宮台真司の「真理の言葉、機能の言葉」等の感想
1. 女の子に敵を倒してもらう
戯言シリーズのいーちゃんは自分は口先三寸で何もしない。女の子に敵を倒してもらう。
ねじまき鳥クロニクルにおいてラスボスは主人公の妻クミコによって倒される。そのとき主人公は井戸に潜ってホテルがどうとか壁がどうとか意味不明なことを言っている。
2. ワインの値段
経済学者オーリー・アッシェンフェルターは統計と数学モデルによってワインの値段をデータに基づいて決めようとした。つまり専門家のテイスティングによって主観的に決まる価値とは違う指標を用いた。
3. 文学部、哲学科。あるいは社会学科
マルクス主義を学んで何になる。芥川龍之介を研究して将来何の役にたつ。就職どうしよう。
4. 考察
数理的な知に対して、人文学的な知、というものは、現実社会に置いて無力というほかない、と思われてきた。実際芥川龍之介の憂鬱は就活生の自己目的化した憂鬱に衒学的色彩を添えることしかできないだろう。先のワインの値段も、結局はオーリーの数理的手法が、専門家の感性(笑)を凌駕したのだった。
しかし人文学的な知は市場において無力ではない。ワインの値段が専門家によって「不当に高く」評価されていたのは、その「人文学的な知」、つまりワイン市場とそれに携わる人の歴史や経験、正確に言えば歴史や経験によって消費者に伝わるワイン業界が文化的に優れていて大枚をはたくだけの価値があると思わせる何か、によってレバレッジがかかっていたからだ。
「草原に吹く風のような味・・・」
ばかばかしい戯言にすぎない。しかし、それは価値を生む言葉。
しかしカリスマの無い人間の言葉は他人を動かせない。そこで人文的な知に信頼性を担保してもらう必要がある。まるで敵を女の子に倒してもらういーちゃんや綿谷昇のように。
それはどこまでも衒学的なものにとどまるかもしれない。しかし学者志望で無ければそれでいい。もしも「人生における目標のようなもの」があるならば、マルクスでも芥川でも詩的表現でも何でも使って言葉にレバレッジをかけ続け、それに近づいていけばいい。
1. 女の子に敵を倒してもらう
戯言シリーズのいーちゃんは自分は口先三寸で何もしない。女の子に敵を倒してもらう。
ねじまき鳥クロニクルにおいてラスボスは主人公の妻クミコによって倒される。そのとき主人公は井戸に潜ってホテルがどうとか壁がどうとか意味不明なことを言っている。
2. ワインの値段
経済学者オーリー・アッシェンフェルターは統計と数学モデルによってワインの値段をデータに基づいて決めようとした。つまり専門家のテイスティングによって主観的に決まる価値とは違う指標を用いた。
3. 文学部、哲学科。あるいは社会学科
マルクス主義を学んで何になる。芥川龍之介を研究して将来何の役にたつ。就職どうしよう。
4. 考察
数理的な知に対して、人文学的な知、というものは、現実社会に置いて無力というほかない、と思われてきた。実際芥川龍之介の憂鬱は就活生の自己目的化した憂鬱に衒学的色彩を添えることしかできないだろう。先のワインの値段も、結局はオーリーの数理的手法が、専門家の感性(笑)を凌駕したのだった。
しかし人文学的な知は市場において無力ではない。ワインの値段が専門家によって「不当に高く」評価されていたのは、その「人文学的な知」、つまりワイン市場とそれに携わる人の歴史や経験、正確に言えば歴史や経験によって消費者に伝わるワイン業界が文化的に優れていて大枚をはたくだけの価値があると思わせる何か、によってレバレッジがかかっていたからだ。
「草原に吹く風のような味・・・」
ばかばかしい戯言にすぎない。しかし、それは価値を生む言葉。
しかしカリスマの無い人間の言葉は他人を動かせない。そこで人文的な知に信頼性を担保してもらう必要がある。まるで敵を女の子に倒してもらういーちゃんや綿谷昇のように。
それはどこまでも衒学的なものにとどまるかもしれない。しかし学者志望で無ければそれでいい。もしも「人生における目標のようなもの」があるならば、マルクスでも芥川でも詩的表現でも何でも使って言葉にレバレッジをかけ続け、それに近づいていけばいい。
2010/03/11
リリィ・シュシュのすべて
この映画は、素晴らしいが好きではない。嫌だが嫌いではない。つまらないがとても貴重な気がする。
星野というキャラクターが、田んぼの中でヘッドフォンを耳に音楽を聴きながら突然叫ぶシーンがある。しかし、観客(私)には、星野の叫びはまさに彼の聴いている「音楽」に遮られて聞こえない。
彼の叫びは(自ら作った?)壁の囲いの中に反響するのみで、誰にも伝わることは無い。抜き差しならなくなった人間の孤独がそこに現れている。
星野というキャラクターが、田んぼの中でヘッドフォンを耳に音楽を聴きながら突然叫ぶシーンがある。しかし、観客(私)には、星野の叫びはまさに彼の聴いている「音楽」に遮られて聞こえない。
彼の叫びは(自ら作った?)壁の囲いの中に反響するのみで、誰にも伝わることは無い。抜き差しならなくなった人間の孤独がそこに現れている。
2010/03/10
ショーシャンクの空に
見た直後はあんまりいい映画だと思わなかったけど、最近気になってきたので感想メモ
・何事も無理だと思わないこと。
・毎日努力を続けること。
・日常をそつなくこなすこと。
・秘密を人に言ってはいけない。
主人公が雨に向かって両手を広げるシーンはとてもよかったです。
2010/02/02
暫定的な投稿
就職活動は、自分の複雑さ、なんだかよく分からない可能性を収束させる作業で、それは自由が強制される現在では自らの行動履歴への参照によってなされるけれど、忘れてはならないのが、決してその参照のうちに第三者が現れ最終的な審級を下す訳ではない、ということ。だから行動履歴への参照は無限参照にならざるを得ず、大学という就職予備校で客観的視点の大切さを学んだ私達は、その無限鎖の果てにある選択は原理的に永遠の暫定性を帯びる事を知っている。あらゆる自己決定はこれでよかったのか?という疑問符を付けざるを得ない。
1.
この無限の鎖を断ち切りたい。それはどのようにしてなされるか?
それは社会システムによってなされる。
それは暴力によってなされる。
社会システムは暴力の一部であるのか、暴力は社会システムの一部であるのか、それはよくわからない。
2.
暫定的な決定を下し続けた私達は、いつか仮定法過去に追いつめられる
2009/12/06
老人と海
アーネスト・ヘミングウェイ「老人と海」
それは偏在する苦悩だった。いつでも、どこでも、それはふとわたしの目(?)をかすめるように現れ、心を掻き乱してゆくのだ。
わたしはそれと戦い続けた。
その戦いが歴史性を帯びるほど長い間続いた為に、わたしは、それはわたしとは不可分のものなのではないか、そう考えるようになった。
わたしに属していながらわたしを苛むそれ。
わたしの精子とわたしの卵子が受精しわたしに着床しわたしの血液から栄養を得てわたしが空気の中に出産したそれ。
それはわたしの子供ではないか、そう考えるようになった。
2009/12/03
翻訳
川田順造:レヴィ・ストロース「悲しき熱帯」訳者
二十二年ののちに–––レヴィ・ストロースにきく–––
以下引用
******
だが、長い間断続して作業を進めるにつれ、自分のフランス語と日本語の未熟を感じる度合いだけが強まり、それに、どんなに頑張ってみても、翻訳とは所詮、双曲線と軸のように決して交わる事の無い近似的な作業に終わるという、自明の事実についての絶望感が募ってくる。
そうこうするうち、未完の訳稿を抱えたまま私も馬齢を重ね、訳し終えた今年の春には、レヴィ・ストロースがこの本を書いた四十七歳にあと五年で届くという年齢になってしまった。それでもなお私は、この著者のフランス語の老成した手応えを日本語に移し替えるには遠く及ばず、自分の老い足りなさに足摺りしたい程のもどかしさを覚える・・・・・・。
******
この文章は、謙遜ではないだろう。生々しい苦悩を感じる。翻訳の辛さなど、今まで考えた事も無かった。
2009/11/07
果ての宇宙
宮代真司、大塚英志、芥川龍之介。
***メタ化***
ある種の人間にとって、対象のメタ化という対処は簡単なものだ。対象に深くコミットする事無く・・・対象にコミットする人間と共通の幻想を見る事無く・・・集団を動かしているものが幻想であると認識し、行動する。それは、幻想の共有による一体感からの断絶の孤独を乗り越えれさえすれば、本当に簡単な事だ。
(例:吹奏楽部の振り付け満載の一生懸命な演奏を見て:あーあ、なにやってんのあいつら。くだらねーな、おれはあんなのできないもんね。やってらんないもんね。)
しかしやはり人間と他者を結びつけているものは幻想なのだと思う。それを全てはぎ取って/メタ化してしまえば、そこには死んだ宇宙のような理性の世界が広がっているだけだ。そこでは人間は無機的な有機物でしかない。
***援助交際する女子高生***
援交する女子高生は成長して心を病むことが多いという。
冷たい理性の世界においては理由無き行為があるだけだ。幻想は、その行為に理由を、物語を与えるシステムとして機能する。愛の為の性交、生殖の為の性交、金の為の性交。
物語が無ければ、行為はどこまでも空しいものだ。物語を少しでも疑うことは、張りつめた風船に穴をあける事に他ならない。後に残るのは虚無、あるいは虚無感だけだ。
彼女たちは、金の為の生殖という物語を信じきれなかったからかも知れない。その燻る虚無感が、彼女たちの心をスポイルしたのかもしれない。ぼくは援交する女子高生では無いので想像でしか無いけれど。
***芥川龍之介***
芥川龍之介は、微笑や反語を落としながら真っすぐに太陽に向かって昇っていった。微笑も反語もメタ化の態度だ。対象より高次に位置しなければとれない態度。彼の精神は太陽に翼を焼かれて墜落したのかもしれない。あるいは真空の高みに達した精神の幻想に、未だ地を這いつくばる肉体が窒息したのかもしれない。とにかく死んでしまった。絶望は人を殺すかもしれないが、行き過ぎたメタ化も人を殺すのだ。
幻想は悪ではない。メタ化は善ではない。
***死んだ宇宙で生きていく為に***
自らに幻想を与え続けること。
死んだ宇宙に恒星を生み出し、星座を作り続ける。そしてその宇宙の神話的幻想をどこまでも信じること。信じて踊り続けること。そしてそれを誰かと共有すること。
2009/10/24
あてどなくさまよう大学生
村上春樹「羊をめぐる冒険」より以下引用
その時僕は21歳で、あと何週間のうちかに22歳になろうとしていた。当分のあいだ大学を卒業できる見込みはなく、かといって大学を辞めるだけの確たる理由もなかった。奇妙に絡み合った絶望的な状況の中で、何ヶ月ものあいだ僕は新しい一歩を踏み出せずにいた。
世界中が動きつづけ、僕だけが同じ場所に留まっているような気がした。1970年の秋には、目に映る何もかもが物哀しく、そして何もかもが急速に色褪せていくようだった。太陽の光や草の匂い、そして小さな雨音さえもが僕を苛立たせた。
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この文章は、普通よりも長く大学に留まる人の心象を表した簡潔かつ正確なものだ。名文と言ってもいい。もっとも、この素晴らしい文章のような経験をすることは素晴らしいことでは無いかもしれない。
2009/10/01
就職社会学
友人の受講している宗教社会学という授業に飛び入りで出席する。
宗教について、二種類の定義の仕方
・実質的定義 (substantial) :こういう属性を満たすものが宗教だ
・機能的定義 (functional) :こういう機能をもつものが宗教だ
機能的定義について、「自らに超越的意味を与えるもの」を宗教と呼ぶ。
かんたんにいえば、
「ああ、おれはこの為にいきているんだうあ〜」
「ああ、おれはこの為なら死んでもいいよう〜」
という文脈において、「この」にあたるものが宗教
本来生存とは無関係。しかし、生存を左右するリアリティをもったそれ。
教授曰く、それは「宗教的」と表現できる。
(ex)
「ああ、おれはパソコンが無くなったら生きて行けないよう〜」
パソコン=宗教
ぼくにとって、あるいはぼくの世代にとって、
宗教/神は物語の存在です。現実にぼくらの生存を左右するとは思っていません。
筑波大学の学生の中に、神の為に死ねる人間が何人いるでしょうか?あるいは思想の為に。
生まれ落ちたときから、しらけているのです。
そんなぼくは、生存を左右するリアリティを「宗教的」と表現することに違和感を感じるんです、教授!言葉が逆流しています!
ところで教授、ここにペットボトルがありますね?これはぼくたちの文化圏では宗教的象徴ではありませんが、もしもある新興宗教が、「ああ〜ペットボトルさま〜神の御心ここにあり!」とか言い出して、勝手に神性を与えたとしましょう。それでその新興宗教がどんどん信者を獲得していったら、ペットボトルは現実に神性を獲得したと言えるのでしょうか?
言えますか!あらゆるRealityはVirtual Realityにすぎない。Virtual RealityのRealityはそのVirtual Reality をRealだと信じる人数によって決定される。
分かりました。では就職活動は宗教の機能的定義において宗教活動と言えるのではないでしょうか?何故ならそれは、
・わたしに意味を与える布石である(仕事、生き甲斐、そして超越的意味)
・わたしの生存を左右するリアリティを持つ(とりあえずお金がないと・・・)
・以上二点をRealだと感じる人間が多い(信者が多い)
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