佐藤優「国家論」
宗教と啓示について。
神は人間とは全然別ものなので知覚できない。人間の側からいくら考えてもだめで、神からの啓示によらなければならない。宗教という形で神(「神」は分からないので、まことの神でありまことの人であるキリスト)を良く知るよう心がけるのは、神の気まぐれであるところの啓示をキャッチするチャンスをつかむ為だ。
ということだけれど、これは人事を尽くして天命を待つということだろうか。
「平等は人の心の中に」というロシア人の言葉。
平等を実現することは無理だけれど、それは究極の憧れとして人の心の中にある。
無理だと分かっていつつ、それに向かって行くということ。やるだけやった後は人間の領域(因果関係のある領域)じゃねーや神様サイコロ振ってね!という態度。ぼくもそうありたいものです。
でもそれほど簡単ではない。リターンがゼロだと知りつつ努力することは簡単では無い。
この前環境系の先輩とこういう話をした。
「おれたちは二酸化炭素を数え上げてごはんを食べているけれど、だからなんだって訳じゃないんだ。環◯研の温暖化シミュレーションなんて嘘で。意味はない。それでもやるのは、二酸化炭素を数えているうちは、まだ環境は改善できるかもしれないっていう幻想をみんなでみることができるから。何やっても無駄だと嘆くよりなんぼかましです」
ここから得られる教訓は、究極的には無意味と分かっていても、何かの改善のため(?)考えたり、勉強したりすることは、精神衛生上好ましい、ということか。