2009/12/06

老人と海

アーネスト・ヘミングウェイ「老人と海」

 それは偏在する苦悩だった。いつでも、どこでも、それはふとわたしの目(?)をかすめるように現れ、心を掻き乱してゆくのだ。
 わたしはそれと戦い続けた。

 その戦いが歴史性を帯びるほど長い間続いた為に、わたしは、それはわたしとは不可分のものなのではないか、そう考えるようになった。

 わたしに属していながらわたしを苛むそれ。
 わたしの精子とわたしの卵子が受精しわたしに着床しわたしの血液から栄養を得てわたしが空気の中に出産したそれ。

 それはわたしの子供ではないか、そう考えるようになった。

2009/12/03

翻訳

川田順造:レヴィ・ストロース「悲しき熱帯」訳者
二十二年ののちに–––レヴィ・ストロースにきく–––
以下引用

******
 だが、長い間断続して作業を進めるにつれ、自分のフランス語と日本語の未熟を感じる度合いだけが強まり、それに、どんなに頑張ってみても、翻訳とは所詮、双曲線と軸のように決して交わる事の無い近似的な作業に終わるという、自明の事実についての絶望感が募ってくる。

 そうこうするうち、未完の訳稿を抱えたまま私も馬齢を重ね、訳し終えた今年の春には、レヴィ・ストロースがこの本を書いた四十七歳にあと五年で届くという年齢になってしまった。それでもなお私は、この著者のフランス語の老成した手応えを日本語に移し替えるには遠く及ばず、自分の老い足りなさに足摺りしたい程のもどかしさを覚える・・・・・・。
******

 この文章は、謙遜ではないだろう。生々しい苦悩を感じる。翻訳の辛さなど、今まで考えた事も無かった。

2009/11/07

果ての宇宙

宮代真司、大塚英志、芥川龍之介。

***メタ化***

 ある種の人間にとって、対象のメタ化という対処は簡単なものだ。対象に深くコミットする事無く・・・対象にコミットする人間と共通の幻想を見る事無く・・・集団を動かしているものが幻想であると認識し、行動する。それは、幻想の共有による一体感からの断絶の孤独を乗り越えれさえすれば、本当に簡単な事だ。
(例:吹奏楽部の振り付け満載の一生懸命な演奏を見て:あーあ、なにやってんのあいつら。くだらねーな、おれはあんなのできないもんね。やってらんないもんね。)
 しかしやはり人間と他者を結びつけているものは幻想なのだと思う。それを全てはぎ取って/メタ化してしまえば、そこには死んだ宇宙のような理性の世界が広がっているだけだ。そこでは人間は無機的な有機物でしかない。

***援助交際する女子高生***

 援交する女子高生は成長して心を病むことが多いという。
 冷たい理性の世界においては理由無き行為があるだけだ。幻想は、その行為に理由を、物語を与えるシステムとして機能する。愛の為の性交、生殖の為の性交、金の為の性交。
 物語が無ければ、行為はどこまでも空しいものだ。物語を少しでも疑うことは、張りつめた風船に穴をあける事に他ならない。後に残るのは虚無、あるいは虚無感だけだ。
 彼女たちは、金の為の生殖という物語を信じきれなかったからかも知れない。その燻る虚無感が、彼女たちの心をスポイルしたのかもしれない。ぼくは援交する女子高生では無いので想像でしか無いけれど。

***芥川龍之介***

 芥川龍之介は、微笑や反語を落としながら真っすぐに太陽に向かって昇っていった。微笑も反語もメタ化の態度だ。対象より高次に位置しなければとれない態度。彼の精神は太陽に翼を焼かれて墜落したのかもしれない。あるいは真空の高みに達した精神の幻想に、未だ地を這いつくばる肉体が窒息したのかもしれない。とにかく死んでしまった。絶望は人を殺すかもしれないが、行き過ぎたメタ化も人を殺すのだ。

 幻想は悪ではない。メタ化は善ではない。

***死んだ宇宙で生きていく為に***

 自らに幻想を与え続けること。
 死んだ宇宙に恒星を生み出し、星座を作り続ける。そしてその宇宙の神話的幻想をどこまでも信じること。信じて踊り続けること。そしてそれを誰かと共有すること。

2009/10/25

老年のマルクス経済学者、朝の教壇に立ち我々に語る

 「このように、資本主義社会においては企業/固定された資本の破壊と創造がその原動力となっています。このダイナミズムが、急速な発展を可能としたのです。
・・・・・・しかしわたしが資本主義を嫌いな理由が、ここにあるのです。自転車のように漕ぎ続かなければ、発展はおろか、安定さえしないこのダイナミズム。最後の最後、最後とはどういう状態か分かりませんが、とにかくその時まで、わたしたちは否応なしに回転しつづけるしかありません。」

2009/10/24

あてどなくさまよう大学生

村上春樹「羊をめぐる冒険」より以下引用

 その時僕は21歳で、あと何週間のうちかに22歳になろうとしていた。当分のあいだ大学を卒業できる見込みはなく、かといって大学を辞めるだけの確たる理由もなかった。奇妙に絡み合った絶望的な状況の中で、何ヶ月ものあいだ僕は新しい一歩を踏み出せずにいた。
 世界中が動きつづけ、僕だけが同じ場所に留まっているような気がした。1970年の秋には、目に映る何もかもが物哀しく、そして何もかもが急速に色褪せていくようだった。太陽の光や草の匂い、そして小さな雨音さえもが僕を苛立たせた。

******

 この文章は、普通よりも長く大学に留まる人の心象を表した簡潔かつ正確なものだ。名文と言ってもいい。もっとも、この素晴らしい文章のような経験をすることは素晴らしいことでは無いかもしれない。

2009/10/14

学園祭

10月8日 木曜日
 台風来て過ぎる。午前中自転車に乗り走るが、壁のような風で前に進めない。
バンド練の為筑波へ向かう。五泊六日の予定なので荷物が多く、両手が塞がる。京浜急行に乗りながら野崎孝訳「ライ麦畑でつかまえて」を読む。村上春樹訳のものはすでに読んでいる。

 筑波に着く。台風後特有の存在感の薄い雲を見る。金木犀の強い香りを感じる。
 バンド練は滞り無く終わる。夜の学校では星が見える。宿泊先の河合君の家へと向かう。

10月9日 金曜日
 一年生最後の朝練を河合君と見に行く。
 練習後、こばみちゃんとBLや太宰治について話す。その所為か、駆け込み訴えがとても読みたくなり、図書館に行って読む。
 12時にD室に戻り、君に届けを読む。その後、会場準備に参加する。

 会場準備が一段落した頃、こばちゃんとモスバーガーに行く。客はぼくたちだけで、出てきた料理は全て作りたてのようだ。ポテトが普段よりおいしく感じる。
 車内では、オーケンが「彼女を捨てた俺の罪」と歌っている。

 会場に戻り、スプーンとフォークの先端をナプキンで包む作業をひたすら続ける。単純作業に見えて、綺麗に包むのはなかなか難しい。特にスプーンは、面が大きく、曲がっているので立体的に捉えないと余計な皺が出来る。

 河合君とココスへ行く。前夜祭には行かずに寝る。

10月10日 土曜日
 学園祭一日目。ミーティングに出た後、研究関連のやり残した仕事を片付けに図書館へ向かう。外は騒がしいが、図書館は静かだ。

 12時から一年バンドを見る。その後いくつかバンドを見る。

 解散した後、学校へ。みんな今日の片付けをしている。ライ麦畑でつかまえてを読む。ホールデンが学校を飛び出し、変態ばかりのエドモント・ホテルに泊まるシーン。

10月11日 日曜日
 学園祭二日目。朝は田島君と一緒にスタバへ。田島君はラテを、ぼくはチャイティーラテを飲む。話しているところ、いでまりちゃんと合流。彼女にイタリア流ナンパの仕方を教えてもらう。

 田島君と一緒に学園祭を歩く。出店の煙。服に匂いが付くだろうな、と思う。実際そうなる。
 キノコご飯を食べながら自主制作ラジオを聞く。内輪の恋愛の話題で、話の流れがつかめない。だが内部事情を知っている人にとっては面白いのだろう。ぼくたちの意思とは無関係に、池のほとりの吹奏楽部は楽しげな音楽を垂れ流し続ける。

 河合君、村戸君と合流する。壊滅的手芸屋で手足の長いオレンジの人形を買う。指サックも買う。

 いでまりちゃんと合流する。大学会館北側に座る。斜めの芝生を転がる。

 解散した後、河合君、田島君、しばけんと一緒にココスへ行く。カキフライとドリンクバーを注文する。始めにラテを飲む。ご飯に全く合わない。次にアップルティー、最後にアールグレイ。

 深夜、帰ってきた大宮君と話す。将来についていろいろ考える。

10月12日 月曜日
 学園祭最終日。バンド出演する。 Question and Answerの後テーマを忘れる。
 ゆみちゃんが来る。河合君のバンドを見る。

 ゆみちゃん、サイさんと一緒に芸専ゲイバーへ行く。「成りきっている」ゲイに接客される。ぼくたちは人見知りが災いしていまいち乗れない。店を出る頃には、三人とも違和感に疲れていて、抽象的な問題を考え始める。

 ペットボトルのそば茶を飲む。ベビースターラーメンの味がする。ハーゲンダッツとは合わない。

 打ち上げを少しさぼり、学祭後の学校を端から端まで歩く。
 刹那的な気分のまま研究室でコーヒーを飲み、打ち上げへと向かう

2009/10/06

風景と心象

明治学院大学へ行くには、戸塚駅からバスに乗ることになる

肌寒く、雨が降っていた
歩道橋が巡らされたバスターミナルを見ると、高校時代を思い出した


この高校を感じさせる場所のすぐ近くに大学があるという事が何故か微笑ましかった
ここでは高校と大学が連続的に繋がっているような気がした

見知らぬ土地の遠い大学に行かずに、このこじんまりとした横浜界隈の大学に行くのも、悪くはなかったかもしれない

風景、というよりも、風景の断絶は、人の心象の時間的な連続性も切り取ってしまうのだろう

ぼくがいずれ筑波からずっと離れるときが来たら、
筑波はぼくにとって特別な象徴になるはずだ

2009/10/01

就職社会学

友人の受講している宗教社会学という授業に飛び入りで出席する。

宗教について、二種類の定義の仕方
・実質的定義 (substantial) :こういう属性を満たすものが宗教だ
・機能的定義 (functional) :こういう機能をもつものが宗教だ

機能的定義について、「自らに超越的意味を与えるもの」を宗教と呼ぶ。
かんたんにいえば、
「ああ、おれはこの為にいきているんだうあ〜」
「ああ、おれはこの為なら死んでもいいよう〜」

という文脈において、「この」にあたるものが宗教
本来生存とは無関係。しかし、生存を左右するリアリティをもったそれ
教授曰く、それは「宗教的」と表現できる。

(ex)
「ああ、おれはパソコンが無くなったら生きて行けないよう〜」
パソコン=宗教

 ぼくにとって、あるいはぼくの世代にとって、
宗教/神は物語の存在です。現実にぼくらの生存を左右するとは思っていません。
筑波大学の学生の中に、神の為に死ねる人間が何人いるでしょうか?あるいは思想の為に。
生まれ落ちたときから、しらけているのです。

 そんなぼくは、生存を左右するリアリティを「宗教的」と表現することに違和感を感じるんです、教授!言葉が逆流しています!

 ところで教授、ここにペットボトルがありますね?これはぼくたちの文化圏では宗教的象徴ではありませんが、もしもある新興宗教が、「ああ〜ペットボトルさま〜神の御心ここにあり!」とか言い出して、勝手に神性を与えたとしましょう。それでその新興宗教がどんどん信者を獲得していったら、ペットボトルは現実に神性を獲得したと言えるのでしょうか?

 言えますか!あらゆるRealityはVirtual Realityにすぎない。Virtual RealityのRealityはそのVirtual Reality をRealだと信じる人数によって決定される。

 分かりました。では就職活動は宗教の機能的定義において宗教活動と言えるのではないでしょうか?何故ならそれは、
・わたしに意味を与える布石である(仕事、生き甲斐、そして超越的意味)
・わたしの生存を左右するリアリティを持つ(とりあえずお金がないと・・・)
・以上二点をRealだと感じる人間が多い(信者が多い)

2009/09/24

やれやれ

村上春樹の作中によく出てくる醒めた独り言
(ex)「やれやれ」

スティーブン・キングやダン・ブラウンの
(アメリカ的な )小説によく見られる
(アメリカ的な?)反語
(ex)(嫌な出来事が起きた事に対して)「全く、今日は最高の日だな!」


村上春樹のユーモア感覚はアメリカのそれに多少影響を受けているのかもしれない。

2009/09/10

舞城王太郎

舞城王太郎
「阿修羅ガール」
「好き好き大好き超愛してる。」
「九十九十九」
および彼に対する諸批評を読んで

舞城の作品は饒舌で複雑で新奇で、いまのぼくではきちんとした批判が出来ない。
しかしその錯綜した彼の作品の中核にあるのは、
とてもベタな感情なのではないか。「愛」みたいな。

2009/09/05

システムインテグレータ

システムインテグレータ(SIer)のインターンに参加する。
その講義、業務研修、社員への質疑応答のまとめ

*システムインテグレータとは
商品はITシステム、顧客は企業。
つまり顧客企業にITシステムを導入するサービスを行う企業。
(例)
・顧客:銀行 提供するサービス:ATMシステム
・顧客:大学 提供するサービス:履修システム

*ITシステムとは
1990年後半、コンピュータ技術、特にネットワーク技術が著しく発達する。
この技術の発達は企業において非常に多くの波及効果を生む。
この効果は新ビジネスモデルの創発、業務の効率化の二つに分けられる。

新ビジネスモデルはIT、特にインターネット技術の向上で可能になった新たなビジネスモデルを指す。インターネットオークション、検索サービスなど。

業務の効率化は、従来業務をITシステムに置き換えることで生産性を向上させる。
紙媒体の資料をデータに置き換え、煩雑な業務を自動化する。
その影響は在庫管理や生産管理等多岐に渡る。

IT技術革命が革命になり得たのは、業務効率化があらゆる企業で可能だったからだ。
企業にとって、ITシステム投資と設備投資はほぼ同意義となった。

SIerの提供するITシステムはこの二つを含むが、以下言及する「ITシステム」は、社内業務の効率化を目的としたITシステムを指す。


*何故SIerが必要なのか
顧客企業は多岐にわたりその業務システムは複雑を極める。
適切なITシステムを設計する為には、オーダーメイドする必要がある。
(もちろん、費用対効果を加味して、割安なパッケージソフトを購入するという選択もある。)
システムオーダーメイドのプロとしてSIerの需要がある。

*日本のSIer
日本において、外資系ITコンサル、SIerは他企業に比べ少ない。
その理由として、日本の顧客企業の注文の厳しさがある。
そしてそれに対応してしまう(日本的?)企業風土がある。

また、システムをオーダーメイドする為には顧客企業との意識の共有が不可欠だ。
それは経営、業務等における暗黙の常識を理解していなければならない。
それが文化の壁として外資を阻んでいる。

システムのコーディングを専門とするプログラマは、今後インドや中国のより人件費の安い外資勢力により淘汰されて行くが、日本SIerは文化と経験の壁によりこれからも需要が無くならない、と会社役員は言う。おそらく、日本で固有に高機能化した携帯電話(ガラパゴス化)のような状況なのだろう。

*ITシステムの需要
まず、既存のITシステムを完璧に代替かつ改善する何かが出現しない限り、システム保守の需要は無くならない。
また、企業にとってITシステムが必要不可欠ならば、新規企業が出現する限りそのシステムの需要も無くならない。
企業の統合と企業システムの統合は表裏一体であるので、企業買収・統合がある限り、システムの需要は無くならない。

しかし、システムが改善され続けるならば、より「よい」システムの需要がいつまでもあるかどうかはわからない。
たとえば、ハードディスクは現在テラバイトを超える容量のものが比較的簡単に手に入るが、それはもはや一般のユーザーには必要のない大きさだ。


また、ITシステムはそれをユーザーが使って初めて価値の出るもので、そこにはシステムを使いこなすだけの技術が求められる。これは学習コストと呼べる。
しかし、システムが高度化するにつれ、ユーザーに求められる技能も増してゆくだろう。

つまり、「学習コスト>システムの効用」となってしまったら、そのシステムを導入するメリットは無くなる。(しかし、「学習コスト」も「システムの効用」も、定量化しづらい値だ)

ITシステム投資は設備投資とほぼ同義。
そしてこれらは、生産能力を上げる補助的な効果をもつものなので、一度導入してしまえば以後のアップデートは必須ではない。
よって不況時にはITシステム投資が控えられる傾向にある。
(逆にいえば、不況時に適切なシステム、設備投資を行っていれば、好況に転じた時に他社に大きな差をつけられる)

*今後のITシステム業界
殆どの企業がITシステムを導入した状態になり、業界再編もひと段落したような成熟した社会でも、ITシステム保守、改善の需要は尽きない。
しかし活発にシステム導入された時期に比べれば明らかに需要は少なく、限られたパイを奪い合う状態だ。
この下では、固定の顧客をもつ企業、特化した技術をもつ企業が有利となり、それ以外は淘汰されてゆくのかもしれない。

2009/08/30

鳩山邦夫

文芸春秋のインタビューに対して

———鳩山さんは子供の頃から政治家志望で、選挙ポスターを見るとアドレナリンが出たとか。

鳩山「いま選挙ポスターを見るとインシュリンが出ますよ」

2009/08/19

スティル・ライフ2

池澤夏樹「スティル・ライフ」の感想。別にスティル・ライフ本文を読んでなくても分かる内容です。
テーマ:リアリティと偽のリアリティ

88ページの会話について。以下引用

「一万年くらい(昔は、)。心が星に直結していて、そういう遠い世界と目前の狩猟的現実が精神の中で併存していた」
「今は?」
「今は、どちらもない。あるのは中距離だけ。近接作用も遠隔作用もなくて、ただ曖昧な、中途半端な、偽の現実だけ」
「しかし、それでも楽に生きていけるように、人はそのための現実を造ったんだよ。安全な下界を営々と築いたのさ。さっきも言ったように、君の方が今では特別な人間なんだよ。」

******

 「心に直結した星」とは星から連なる一連の神話的物語、あるいは星の美しさそのもので、「狩猟的現実」とは生と死を分ける「仕事」と解釈する。

 これらの「遠い価値観」が併存していた。つまり彼らの生活にとって、生死を分つ仕事と神話的世界、想像、美といったものは等価だった。

「あるのは中距離だけ」と言われる現代はどうか。

 まず狩猟的現実(仕事)の面から考える。
 現代は、星の時代にはあったであろう部族的集団(つまり仕事、生活、精神の共同体)が解体されている。つまり仕事に失敗して肉体的に滅びる「わたしたち」が存在せず、そもそも「それをしなければ死ぬ」という仕事をしなくても、人間は生きて行く事が出来る。

 これらのことが何を曖昧にするか?それは生存へのリアリティだ。現代社会において死は病院、社会保障、縮小した家族、そして孤独によって多重に隠蔽された存在だ。わたしたちが普段死を、事に自分の死を「リアリティを持って」考える機会はあまり無い。
 現代は「生存のリアリティ」が減衰している、と言える。


 次に「星」について
 古代においてあったとされる「星に直結された心」に象徴されているものは、想像世界のリアリティ(「リアル」では無い)だ。
 科学、工学の発達、それに伴う合理化の時代は、魔法やまじない等の想像上のリアリティを払拭した。むしろ迷信の類いは「非合理」の元に悪と見なされる。
 しかし、想像上の世界そのものが無くなった訳ではない。それは芸術、神話、あるいは各個人の妄想等、確かに存在するが、古代におけるような、「生き死にを左右する程の圧倒的リアリティ」を持つ事はどうしても出来ない。
 現在は「想像的リアリティ」の権威が失墜している時代、といえる。

 ではこの二つのリアリティの減衰、いわば中距離化の何が問題なのだろうか。
 それは自分が何を為すべきか決めづらくなったということだ。

 人間には動物的役割と社会的役割があると考える。前者は動物としての人間の役割、つまり生存、生殖、適切な時期の死、等々。後者は高度に発達した人間社会という「造られた現実(安全な下界)」の中での役割だ。この後者の役割を、決める事が出来ない。

 何故か?そこには「リアリティ」という基準、有無を言わさぬ暴力的な視点が欠如しているからだ。

 仕事にせよ想像世界にせよ「生死を分つ圧倒的リアリティ」があるならば、それを決めるのは今程困難ではなかったはずだ。肉体的な死を避ける為に狩りに出る。旱魃を沈める為に、神の生け贄となって死ぬ。これらのことは戸惑いも許さぬほどクリアなことだっただろう。そしてそれらの行動は、人間の動物的役割とも直結していた。
 
 それでわたしたちはどうしたのか。「曖昧な、中途半端な、偽の現実」を作り上げた。少し変えて、偽のリアリティーと表現しよう。リアルとリアリティーは意味が違う。これらは誤解を恐れずに書けば「自己実現」、「社会貢献」、「スローライフ」、「エコ」というような言葉から想像されるような価値観群だ(この本が書かれたのは1991年なので、これらの例とは少しずれているかもしれない)。
 つまり、偽のリアリティーとは、それらを自らの役割(行動)の基底に据えることは出来るが、そこからさらに掘り下げて考えると何も無い、というような価値観群だ。そこには、圧倒的で暴力的で有無を言わさぬリアリティーは無い。

 これらの価値観、偽のリアリティーがシミュラークルとして世界に溢れている。その事を、池澤夏樹はある意味で怒って、そしてあきらめているのではないか。

 こういった状態でどのように行動の指針を決めて行くかというのは、また別の話。

2009/08/14

学校での恋愛への恋愛

新海誠「秒速5センチメートル」
細田守「時をかける少女」
および東浩紀、斎藤環、大澤真幸らのいろいろな議論からの印象

 恋愛に純化した物語において、学校や学生、特に中高の学校生活を主題としたものが多い。それは何故か?

 学校とは。(中学、高校)
 共学においては、隔離された狭い空間の中にほぼ同数の男女が押しやられている。その殆どが異性への興味を持っている。そういったものが、美醜、能力の高低、所得の差、欲望の差等に関係無く、集合体を作っている。

 欲望のベクトルを持った個体が高密度に集合している。それは特異でかつ、共通の体験だ。そして想像しやすい環境だ。
 
 そういう環境で、恋愛を謳歌した人もいた。好きになった人に振られた人もいた。告白さえ出来なかった人も、人を好きにならなかった人もいた。
 そして人は一度限りの奇妙な時間を体験した後、否応無しにそこを通過して、別のどこかへと去ってゆかなければならない。

 一度限りだった。しかし、他の可能性もあったのではないか。物語は、その可能性を提示する。
 物語の世界に溢れる学校生活は、あるいは理想化された恋愛は、こころのどこかに引っかかっている、「わたしにもあったかもしれない可能性」を目覚めさせ、それを想像することを可能にする。

 その「想像しうるわたしの可能性」は、あらゆる立場(引きこもりであれ男子校出身であれ、あるいは外国人でさえ)を超えて物語への共感を生む。多くの人が秒速5センチメートルを見て何かを「くらった」のも、各人の可能性の中にあの情景があったからではないのか?

 ぼくはこうだったかもしれない、ああなるかもしれない、と考える事が、他人(生身の人間でなくてもいい。二次元でもいい。)への共感、つまり他人の中に自分の可能性を見いだすということに繋がっている。

 そしてそれは、論理を超えたことだ。わたしは◯◯である、◯◯に所属し・・という、わたしを覆う言葉の外殻、論理の碇は、「可能性」によってanyoneの集合に溶けてゆく。
共感の世界においてはもはやわたしはわたしの歴史から解放され、物語に存在する属性のデータベースに接続している。

 なぜ物語は、想像可能なわたしの可能性の中でも特に恋愛を語るのか。
 人々にとってそれは困難で甘美で低次で高次な欲望だから。というのもあるが、恋愛が属性の選好と密接な関係があることに注目する。


 愛とは。
 その人の属性を愛する事なのか?存在するその人を愛する事なのか?

 ぼくの好きなAさんの属性が全て言葉で表せるとすると、Aさんの属性を全て備えてしかもAさんよりも可愛さの属性が上であるBさんが現れたら、ぼくはAさんからBさんに乗り換えるだろうか?

 ぼくがAさん自身を好きだとする。ではAさんの属性が全て失われたら、ぼくは現実的な愛をAさんに抱けるだろうか。Aさんの属性が全て失われたそれはぼくにとってAさんと言えるだろうか?

 上の二つは原理的に同じことだ。つまり、Aさんに言語化されない属性があるかどうか。もしそれが無いならば、ぼくはAさんからBさんに乗り換えるし、全ての属性を失ったAさんはもはやAさんでは無い。

 では言語化できない属性とは何か?よく分からない。ただそれは、恐らくは祈りあるいは倫理として存在しているのだろう。

 言語化可能な属性に還元できる範囲の恋愛(つまり属性の選好?)ならば、それはもはや物語の属性の集合に取り込む事が出来る。
 それも個人への愛だけでなく、その周辺のシチュエーションも言語の及ぶ範囲で可能だ。

 ぼくたちが言語化可能な属性の選択による恋愛を繰り返すなら、それは物語の中で原理的に再現できる。そこにリアリティのある「想像可能な可能性」を埋め込むことが出来る。より感情を揺さぶるものへ、より需要のあるものへ、より欲望をかき立てるものへ。


まとめ
 ほぼ万人共通の、想像可能な可能性のデータベース、その環境が高校。その行為が恋愛。それは無数の夢の残滓が漂っている注文の多いMatrixといえる。
 その母体から生まれる物語はデータベースから属性を出し入れするだけで、組み合わせ論的に無数に生産する事ができる。わたしたちは、可能性を満たす為に、それを条件反射的に、動物的に消費している。

2009/08/07

東浩紀

東浩紀
「あの映画を見て観客が感情移入するのは、男も女も関係なく、間違いなく、キキでしょう。そしてそれは、単純に、キキが黒服を着て赤いリボンを付けて猫を連れているからでしょう。それは今のギャルゲーに連なる感性です。宮崎駿はそういう点でそれこそ動物的に敏感な人で、ずっとオタクに媚び続けてきた人でもある。」

斎藤環
「それは完全に同意できる。」

2009/08/01

世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド

村上春樹「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」

システム対人間という村上春樹作品のテーマ

「それの要素であるわたしはそれを内包している」

ぼくの想像するシステムは、上に書いたような相互入れ子状態だけど、村上春樹はそうじゃないみたいだ。
海辺のカフカなんかは(善悪?)二元論だけど、この作品だともう少し複雑だ。

完全な閉じた輪としてのは主人公の内部に存在していた。
でもそれは完全であるが故間違っていた、ということだ。
心を意図的に(?)消すという事で変化の無い永遠を得るっていうのはちょっとまずい、と。

でもやっぱりこの世界観はファンタジーだ。別名、論理を欠いた三段論法
それでもいいのかもしれないな。この本面白いし
でもぼくはもっとリアルな生生しさが好きだ

主人公は言う
「心は本質であり切り離す事は出来ない」

———町の壁は人工的なものであり、それは町の(系の)本質だ。完全なものは閉じていなければならない。

社会システムはいろんな意味で完全ではないし、そうはなり得ない。
何故か?
システムの構成要素が不安定だからだ。
それはわたし(たち?)のアイデンティティが相対的という所に根ざしている。
自分の存在理由は、時と場合で変わってしまう

空転する自我を抱えた人間が構成する社会は生まれたときから不安定なはず

そんな中でぼくたちはわたしたちの落し子であるシステムに翻弄され続ける
村上春樹はこの作品中でそれを「壁」と表したけど、ぼくはそうは思わない
それは波であり、ぼくたちは水のようなものだ

2009/07/26

横浜美術館

横浜美術館「フランス絵画の19世紀」

ふらりと行った横浜の美術館で、フランス19世紀絵画の特集をしていた
平日の昼間だったので、客層はリタイアした老夫婦が多い
しかしぼくよりちょっと年上ぽい女性も何人か見かける

美術館にくるような女の人はみんなおしゃれでいい
ぼくは全身ユニクロだったな
ちょっと引け目を感じていた

ロマン主義と呼ばれる絵画が沢山展示されていた

洪水の町で妻子を引き上げようとしている男の絵があって、
男の目の必死さはそれはそれは必死だったけど
女の体にはどこからか光が当たってて、
ポーズなんかとってて筋肉なんかもすごくきれいだった
でも洪水の時にそんなのってないよな。ぼくはしらけた

絵を見るたびに段々とやるせない気分になっていた
そういうのはあんまりにドラマチックで、多少の嘘をついているように見えた
構図の美しさ、造形の美しさの為に、真実を塗りつぶしているように思えた

でもそれはきっと作者の美的感覚がダセーとかではなくて
ぼくの生きている時代のせいだ
ぼくは19世紀フランスのロマンティシズムを身につけていない


ロマンティシズム
「挑んで破れる事がロマンティシズムの本質」だと
村上春樹の作中人物は言っていた
そのとおり、だが、
ロマンティシズムの本質をロマンティシズムを排して表現すれば
「自覚なき嘘つき」

てくてく歩いて、出口につくと
ぽつんとセザンヌのセント・ヴィクトワールの絵がかかっていた
足を止めてまじまじと見た

赤茶けた岩土がむき出しになり、所々に背の低い植物が生えている
空は水色と若草色(!)

若草色の空、そんなものはきっと無いだろう
しかしこれが嘘(ロマンチックに言えば、セザンヌの祈り?)だとしても、
まあいいかなと思う

なんでロマンチストの嘘はぼくをがっくりさせて
セザンヌの嘘はいいよいいよってひいきしちゃうのか
ぼくにもよくわからないけど
カッコ付ける為の嘘と、どーでもいい嘘との違いかな
まあほんとは好みの差かもしれない
ヤベー死ぬって時に「バァーン」ってポーズ付けてる女と
若草色の空のどっちがすてきかっていう

セント・ヴィクトワールの絵を結構長い間見ていたけど、
ふと、なんでセザンヌはこの山にこだわったのか気になった
これはもう想像するしか無いけど、やっぱり好みの問題なのかな


絵の説明にはこうあった
「晩年のセザンヌは、南仏で孤独な創作活動を行っていた」

2009/07/23

スティル・ライフ

池澤夏樹「スティル・ライフ」

蝉の鳴き始めた頃に購買で見かける
「青春小説」というあおりに惹かれて買う
青春、いいね!
文庫版、装丁はウィリアム・モリス

きれいな名前だ、どんな女の人なのかな、と思って本を開くと、
リリカルなおっさんが俯いた写真があってびっくりした
いや、ほんとはがっかりした

以下引用

「(古代では)心が星に直結していて、そういう遠い世界と目前の狩猟的現実が精神の中で併存していた」
「今は?」
「今は、どちらもない。あるのは中距離だけ。近接作用も遠隔作用もなくて、ただ曖昧な、中途半端な、偽の現実だけ」



偽の現実、と言われると何も反論できない
そういうものは知らない間に周りに溢れているのかもしれない
でも、いくらそれが嫌でも、来ないで!来ないで!わたしは真実しか愛せない!
っていうスタイルはちょっとつらい

虚構だろうと、それが現実を殻みたいに覆ってしまえば、
ぼくたちは結局従うしかない

人間のミニマムな本質は狩って食うことだということは正しいけど、
だからといってそんな生活をして生きていけない
(世の中には、農耕が始まってからファッキン階級社会が生まれたって言ってる人もいるんだよう!
縄文さんチョリース、弥生時代ファッキントッシュ!、って具合に)


嘘だと知りつつ変化の上っ面を滑りに滑ってゆく、
これはまあ情けないしちょっと悲しいけど
あんがい便利で楽しい事かもしれない
なにより、嫌でもそれから逃げられない

肥満したサラリーマンを見ると、
そんな巨体で、走れるのか?ってふと思う
猫に捕食されるぞ!

2009/07/11

好き好き大好き超愛してる。

久しぶりに見た夢を覚えている
降水確率が10%なのに曇っている

昼食を食べた後、自転車に乗って一時間程徘徊する
家に帰ってスティーブンキングを読む
いつの間にか寝てしまう

起きたら夕食の時間だ

本屋に行き、ダヴィンチを読む。面白そうな雑誌だった
スターバックスに行く
またチャイティーラテを頼む。昨日より牛乳(?)が多いようだ
好き好き大好き超愛してる。を読む
長期間友達にかすので、内容を覚えておきたかった

アダムとイブの話が切ない
この小説は全体としてまとまりが無いように感じるが、
ぼくは結構好きだ

白くて良い紙を使っている
行間が広くて読みやすい

帰り道、歩道を歩くゴキブリを見る

2009/07/10

レーベンシュタイン

午前3時に起床。昨日寝たのが早かっただけだ
しばらく本を読む
インターン情報をリクナビで調べる
行きたいインターンがあったがTOEICの点数制限がついていた
その点数は超していたが、2年以上前のものなので使えない
9月にTOEICを受ける

外に出る。北の空が微かに晴れている。風が強い
気分を変える為に、横浜の県立図書館で勉強する
地下の自習室に初めて入る
入った瞬間、高齢者特有の体臭が鼻を突く
老人と女子高生が数人いる。何人かは机に突っ伏して眠っている
壁や床に、加齢臭が染み付いている

読んでいる本は資本市場についての章にさしかかっている

閲覧席に移動し、同じ本を読み進む
周囲の席は全て男性の老人で埋まっている


5時頃家に帰る
雲と空が混ざり合った絵的にきれいな夕焼けだったが
風が湿っている。風に触れると手が自然に湿る

ランドマークタワーの有隣堂が閉店する
その一階下にはスウェーデンのアパレルH&Mが新規開店する
前の店舗は家具屋だった気がする

近所のスターバックスに行く
疲れていたのでチャイティーラテのアイスを頼む
すんげーーー甘い、けどおいしい

金曜日の夜はバイトも客も毎週同じようなメンツだ
モノローグの人、色男、そしてぼく

久しぶりにパソコンを持っていく
前書いたプログラムの挙動を殆ど忘れていたが、無事動かせた

とりあえず上手く行く
最近は本ばっかり読んでいた
何かを作って上手く行くのは気分がいい

2009/07/08

Kenneth Arrow

あらゆる投票制度はいくつかの条件のもとで同じ類の不整合性をもたらす。
この不整合性とは、どのような民主的政府の意思決定過程でも避けられない性質である。
整合的な選択を行う為の唯一の方法は、1人の人に全ての決定をゆだねる事である。

Joseph E. Stiglitz

——証券アナリストが予想を誤る数ある要因の中の一つ

会社が「クリエイティブ」な会計手法を通じて、正確な利益を報告しない事

魯迅

——スウェーデンの探検家へディンにノーベル賞に推薦されて

顔色が黄色だからといって、特別寛大に優遇しますと、かえって中国人の虚栄心を増長させてしまいます

James Gosling

——身売り先としてはIBMとオラクルのどちらを望んでいたか、という質問に対して

両社のどちらかを選ぶとすれば、間違いなくオラクルを選ぶでしょう。私はIBMで働いた経験があります。

シフォンケーキ

11時頃起床
外は、雨が降っているのか止んでいるのか分からないような天気
暑く、風が強い。風が清涼ではない

市立図書館に本を返却し、スティーヴンキングとアリスを借りる

横須賀線に乗って大船を目指す
対面に山手学院の男子生徒が座る
髪を切る
時間が余ったのでそこらへんの喫茶店に行って
3年前の夏の日記を書く
過去の日記を書く事は
無数に反復された行動の中から
記憶という半透膜を通して
本質を抽出する作業という一面もある

家に帰り夕食を食べ近所のスターバックスに行く
空は厚い雲に覆われているが、ところどころ裂け目がある

やっぱりアイスティーを頼む
ポニーテールの人がシフォンケーキのおまけをくれた
ゆるふわ系の人がいた。初めてみた

経済系の本を読む
途中で寝そうになる
こういうときは本当は素直に寝た方がいい
しかし、しばらくすれば眠気は収まる

2009/07/07

寝付けずに舞城王太郎「好き好き大好き超愛してる。」を読む
これを読むのは二度目
メタ化された人間関係というものを、最初よりは納得できた

よく眠れなかったが8時頃に起きる
朝ご飯にきつねうどんをつくってたべる
外に出ると、本当に久しぶりに晴れている
ラッシュをさけて電車に乗ったはずが、やけに混んでいる

死と再生についてのオムニバス講義
テーマは社会学における自殺
個人的な体験、必要性から、研究を進める教授が教壇に立つ
世界の断片を消化し、自分の心の間隙に充填してゆく作業
金にならない偉くなれない、しかし、
それは凡人に残された(人文?)研究の意義なのかもしれないかもなあと思う
授業の内容は殆ど覚えていない

午後1時、チーズクラッカーを食べる
図書館にいってミクロ経済学の教科書を探す
結局スティグリッツにする。700ページ以上ある

地下一階でメモを取りながら読む

午後2時40分、飽きたので散歩。サンドウィッチを食べる
「青春小説」というあおりが気になって池澤夏樹のスティル・ライフを買う

午後3時、図書館に戻りスティグリッツの読書を再開
この本は優しい
ミクロ経済学入門講義は無愛想だが、説明が透明に感じる

午後5時、飽きてきたので散歩
近くの店にてクーリッシュレモンライムを買う
外のベンチでクーリッシュレモンライムを食べていたら肘を蚊に食われる

午後5時30分、図書館に戻る
やる気が出ないのでスティル・ライフを読み、読み終わり、
かといってやる気が回復した訳ではないけれどまたスティグリッツを読む

午後7時10分、嫌になったので帰り支度をするが
その前に帰りの電車内で読む本を探しに行く

難しい本は読みたくない
図書館に地下二階がある事を初めて知る

舞城王太郎を検索すると、日吉に「ディスコ探偵水曜日」がある
しかしそれしか無い

結局指輪物語の解説本のようなものを借りた。絵も付いてて面白そうだ

夜8時、帰り道は何故か大学生でごった返している
ゼミか実習の帰りなのかもしれない
だいたい皆知り合いのようだ
ぬるく重く暗い都会の夏の夜だったが、彼らは楽しそうだ

駅にはやはり沢山のサラリーマンたち
京浜急行の8時30頃の電車は帰宅ラッシュの過渡にある
しかし本は読める。横浜ではかなりの人がおりる

今日は喫茶店には行かない
図書館での勉強を途中で切り上げて
そこらへんの喫茶店で続きをやった方が能率よく出来ただろう
しかし、学生の群れと気怠い夜に「下校」するのは
この先何度できることやら

2009/07/06

リピート

9時頃起床し本を読むがいつの間にか寝ていた
12時に目覚めて昼食を取る
家の中にいるとぼーっとしてしまうので外へでる

暑く、空気は湿っている。小雨が降っている
不快さに対する心構えが出来ていれば、不快さはそれほど不快ではなかった

月曜日は図書館の休館日なのでドトールコーヒーに行きアイスコーヒーを頼む
ガムシロップを半分だけ入れるとちょうど良い甘さになる

店内は人の話し声で騒々しかったのでiPodでスピッツの8823をリピートで聞きながら
昨日の復習を進める

8823が1周半したところで切り上げて自宅へ戻る
雨がやんでいる。来たときよりも涼しくなっている

自宅で佐伯啓思「欲望と資本主義」を読み進める
価値を投下された労働量で判断するか、marginalな欲望で判断するか、というのが
マルクス経済学とマルクスを否定した経済学との違いの一つだ、と述べている
ぼくは彼の指摘を待つまでこのことに気がつかなかった

5時頃、走りに外へ、雲が薄くなっている。左回り
足もお腹も痛くならず、少しスピードが出せた。いつもより気持ちのよい走りだった

自宅に戻りストレッチをし、シャワーを浴びてから体重を量ると一昨日より800グラム減っていた。体脂肪率は変わっていない

夕飯を食べてから近所のスターバックスへ行く。空気は湿っている。雲が多く空は藍色
昨日の失敗を繰り返さないように、アイスティーを頼む

小さなノートに日記を書く。殴り書きだが、自分にしてはバランスのいい字で書けた
大きなノートに復習の続き。今日は復習で終わりそうだが、構わない
丁寧に書いたが、あまり上手い字とは言えない。殴り書きの字の方が見栄えがよい

閉店間際になっても客は来る。仕事帰りなのだろう
昨日の失敗を繰り返さないように、閉店前に店をでる
空気は湿っている

2009/07/04

ポニーテール

早起きして大学に行く
授業後図書館で復習しようとするが眠くて手が着かず
芸術新潮のゴーギャン特集を読む(眠いけど読めた)
曰くゴーギャンは証券マンを辞めて画家になった
沢山の女を孕ませた
娘が死んだショックで自殺しようとした
でも結局大作を描いてから死んだ
ゴーギャン、ますらをなやつ

エレベが欲しいので横浜にいって楽器屋を見物する
フェンダージャパンのプレベを試奏したが意外と長くて重い
自分にはミディアムかショートスケールがいいみたいだ

夜は近所のスターバックスに行く
アイスティー頼んだら短髪のハーフがストロー差してくれた
こんなサーヴィスは初めてだ
店員には、あと(商業的)笑顔の眩しいおだんごの人とポニーテールの人がいた
ポニーの人は見覚えが無かった

客には色男と独り言の人がいた
独り言の人は商品を買いこみ、店員にしきりに話しかけていた
ポニーの人は献身的に彼の話を聞いていて、なんだか感動した
ぼくは授業の復習をしていた
客が少なく、静かな夜だった。小雨が降っていた