テーマ:リアリティと偽のリアリティ
88ページの会話について。以下引用
「一万年くらい(昔は、)。心が星に直結していて、そういう遠い世界と目前の狩猟的現実が精神の中で併存していた」
「今は?」
「今は、どちらもない。あるのは中距離だけ。近接作用も遠隔作用もなくて、ただ曖昧な、中途半端な、偽の現実だけ」
「しかし、それでも楽に生きていけるように、人はそのための現実を造ったんだよ。安全な下界を営々と築いたのさ。さっきも言ったように、君の方が今では特別な人間なんだよ。」
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「心に直結した星」とは星から連なる一連の神話的物語、あるいは星の美しさそのもので、「狩猟的現実」とは生と死を分ける「仕事」と解釈する。
これらの「遠い価値観」が併存していた。つまり彼らの生活にとって、生死を分つ仕事と神話的世界、想像、美といったものは等価だった。
「あるのは中距離だけ」と言われる現代はどうか。
まず狩猟的現実(仕事)の面から考える。
現代は、星の時代にはあったであろう部族的集団(つまり仕事、生活、精神の共同体)が解体されている。つまり仕事に失敗して肉体的に滅びる「わたしたち」が存在せず、そもそも「それをしなければ死ぬ」という仕事をしなくても、人間は生きて行く事が出来る。
これらのことが何を曖昧にするか?それは生存へのリアリティだ。現代社会において死は病院、社会保障、縮小した家族、そして孤独によって多重に隠蔽された存在だ。わたしたちが普段死を、事に自分の死を「リアリティを持って」考える機会はあまり無い。
現代は「生存のリアリティ」が減衰している、と言える。
次に「星」について
古代においてあったとされる「星に直結された心」に象徴されているものは、想像世界のリアリティ(「リアル」では無い)だ。
科学、工学の発達、それに伴う合理化の時代は、魔法やまじない等の想像上のリアリティを払拭した。むしろ迷信の類いは「非合理」の元に悪と見なされる。
しかし、想像上の世界そのものが無くなった訳ではない。それは芸術、神話、あるいは各個人の妄想等、確かに存在するが、古代におけるような、「生き死にを左右する程の圧倒的リアリティ」を持つ事はどうしても出来ない。
現在は「想像的リアリティ」の権威が失墜している時代、といえる。
ではこの二つのリアリティの減衰、いわば中距離化の何が問題なのだろうか。
それは自分が何を為すべきか決めづらくなったということだ。
人間には動物的役割と社会的役割があると考える。前者は動物としての人間の役割、つまり生存、生殖、適切な時期の死、等々。後者は高度に発達した人間社会という「造られた現実(安全な下界)」の中での役割だ。この後者の役割を、決める事が出来ない。
何故か?そこには「リアリティ」という基準、有無を言わさぬ暴力的な視点が欠如しているからだ。
仕事にせよ想像世界にせよ「生死を分つ圧倒的リアリティ」があるならば、それを決めるのは今程困難ではなかったはずだ。肉体的な死を避ける為に狩りに出る。旱魃を沈める為に、神の生け贄となって死ぬ。これらのことは戸惑いも許さぬほどクリアなことだっただろう。そしてそれらの行動は、人間の動物的役割とも直結していた。
それでわたしたちはどうしたのか。「曖昧な、中途半端な、偽の現実」を作り上げた。少し変えて、偽のリアリティーと表現しよう。リアルとリアリティーは意味が違う。これらは誤解を恐れずに書けば「自己実現」、「社会貢献」、「スローライフ」、「エコ」というような言葉から想像されるような価値観群だ(この本が書かれたのは1991年なので、これらの例とは少しずれているかもしれない)。
つまり、偽のリアリティーとは、それらを自らの役割(行動)の基底に据えることは出来るが、そこからさらに掘り下げて考えると何も無い、というような価値観群だ。そこには、圧倒的で暴力的で有無を言わさぬリアリティーは無い。
これらの価値観、偽のリアリティーがシミュラークルとして世界に溢れている。その事を、池澤夏樹はある意味で怒って、そしてあきらめているのではないか。
こういった状態でどのように行動の指針を決めて行くかというのは、また別の話。