細田守「時をかける少女」
および東浩紀、斎藤環、大澤真幸らのいろいろな議論からの印象
恋愛に純化した物語において、学校や学生、特に中高の学校生活を主題としたものが多い。それは何故か?
学校とは。(中学、高校)
共学においては、隔離された狭い空間の中にほぼ同数の男女が押しやられている。その殆どが異性への興味を持っている。そういったものが、美醜、能力の高低、所得の差、欲望の差等に関係無く、集合体を作っている。
欲望のベクトルを持った個体が高密度に集合している。それは特異でかつ、共通の体験だ。そして想像しやすい環境だ。
そういう環境で、恋愛を謳歌した人もいた。好きになった人に振られた人もいた。告白さえ出来なかった人も、人を好きにならなかった人もいた。
そして人は一度限りの奇妙な時間を体験した後、否応無しにそこを通過して、別のどこかへと去ってゆかなければならない。
一度限りだった。しかし、他の可能性もあったのではないか。物語は、その可能性を提示する。
物語の世界に溢れる学校生活は、あるいは理想化された恋愛は、こころのどこかに引っかかっている、「わたしにもあったかもしれない可能性」を目覚めさせ、それを想像することを可能にする。
その「想像しうるわたしの可能性」は、あらゆる立場(引きこもりであれ男子校出身であれ、あるいは外国人でさえ)を超えて物語への共感を生む。多くの人が秒速5センチメートルを見て何かを「くらった」のも、各人の可能性の中にあの情景があったからではないのか?
ぼくはこうだったかもしれない、ああなるかもしれない、と考える事が、他人(生身の人間でなくてもいい。二次元でもいい。)への共感、つまり他人の中に自分の可能性を見いだすということに繋がっている。
そしてそれは、論理を超えたことだ。わたしは◯◯である、◯◯に所属し・・という、わたしを覆う言葉の外殻、論理の碇は、「可能性」によってanyoneの集合に溶けてゆく。
共感の世界においてはもはやわたしはわたしの歴史から解放され、物語に存在する属性のデータベースに接続している。
なぜ物語は、想像可能なわたしの可能性の中でも特に恋愛を語るのか。
人々にとってそれは困難で甘美で低次で高次な欲望だから。というのもあるが、恋愛が属性の選好と密接な関係があることに注目する。
愛とは。
その人の属性を愛する事なのか?存在するその人を愛する事なのか?
ぼくの好きなAさんの属性が全て言葉で表せるとすると、Aさんの属性を全て備えてしかもAさんよりも可愛さの属性が上であるBさんが現れたら、ぼくはAさんからBさんに乗り換えるだろうか?
ぼくがAさん自身を好きだとする。ではAさんの属性が全て失われたら、ぼくは現実的な愛をAさんに抱けるだろうか。Aさんの属性が全て失われたそれはぼくにとってAさんと言えるだろうか?
上の二つは原理的に同じことだ。つまり、Aさんに言語化されない属性があるかどうか。もしそれが無いならば、ぼくはAさんからBさんに乗り換えるし、全ての属性を失ったAさんはもはやAさんでは無い。
では言語化できない属性とは何か?よく分からない。ただそれは、恐らくは祈りあるいは倫理として存在しているのだろう。
言語化可能な属性に還元できる範囲の恋愛(つまり属性の選好?)ならば、それはもはや物語の属性の集合に取り込む事が出来る。
それも個人への愛だけでなく、その周辺のシチュエーションも言語の及ぶ範囲で可能だ。
ぼくたちが言語化可能な属性の選択による恋愛を繰り返すなら、それは物語の中で原理的に再現できる。そこにリアリティのある「想像可能な可能性」を埋め込むことが出来る。より感情を揺さぶるものへ、より需要のあるものへ、より欲望をかき立てるものへ。
まとめ
ほぼ万人共通の、想像可能な可能性のデータベース、その環境が高校。その行為が恋愛。それは無数の夢の残滓が漂っている注文の多いMatrixといえる。
その母体から生まれる物語はデータベースから属性を出し入れするだけで、組み合わせ論的に無数に生産する事ができる。わたしたちは、可能性を満たす為に、それを条件反射的に、動物的に消費している。