2010/11/21

否定神学

バートランド・ラッセル「西洋哲学史」、トマス・アクィナスのところ

以下引用 pp-450

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(トマス・アクィナス著「反異教徒汎論」について)
神について多くの事をいいうるのであるが、それらは全てある意味において、否定的な主張である。すなわち神の本性というものは、神がこうこうではない、ということを通してわれわれに知られるに過ぎない。

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ああでもない、こうでもない、というように否定的に神を定義することを、否定神学と呼ぶ・・・と東浩紀や佐藤優は言っていた。ホントか、と思ったらラッセルの著作にも同じような記述があるので、割とオーソドックスな考え方なのかもしれない。

東浩紀が否定神学に拘る理由は、彼の著作「存在論的、郵便的」によれば、ジャック・デリダの脱構築が否定神学を否定するものだから、だそうだ。
それに対して佐藤優の否定神学の興味は、ロシア正教の神に対する考え方が否定神学だからだ(文学界に載っていた)。彼はその考えに賛同している。

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ところで、否定神学的にしか定義し得ない対象とはなんだろうか?
恐らくは、言語で捉えられない対象だろう。

2010/11/19

佐藤優を読んで2

佐藤優「国家論」

宗教と啓示について。
神は人間とは全然別ものなので知覚できない。人間の側からいくら考えてもだめで、神からの啓示によらなければならない。宗教という形で神(「神」は分からないので、まことの神でありまことの人であるキリスト)を良く知るよう心がけるのは、神の気まぐれであるところの啓示をキャッチするチャンスをつかむ為だ。

ということだけれど、これは人事を尽くして天命を待つということだろうか。

「平等は人の心の中に」というロシア人の言葉。
平等を実現することは無理だけれど、それは究極の憧れとして人の心の中にある。

無理だと分かっていつつ、それに向かって行くということ。やるだけやった後は人間の領域(因果関係のある領域)じゃねーや神様サイコロ振ってね!という態度。ぼくもそうありたいものです。

でもそれほど簡単ではない。リターンがゼロだと知りつつ努力することは簡単では無い。

この前環境系の先輩とこういう話をした。
「おれたちは二酸化炭素を数え上げてごはんを食べているけれど、だからなんだって訳じゃないんだ。環◯研の温暖化シミュレーションなんて嘘で。意味はない。それでもやるのは、二酸化炭素を数えているうちは、まだ環境は改善できるかもしれないっていう幻想をみんなでみることができるから。何やっても無駄だと嘆くよりなんぼかましです」

ここから得られる教訓は、究極的には無意味と分かっていても、何かの改善のため(?)考えたり、勉強したりすることは、精神衛生上好ましい、ということか。

2010/11/08

偶像崇拝はなんでだめなのか?

佐藤優「国家論」

何故偶像崇拝してはいけないのか。
前提として、神は人間には感知できない。人間の属するシステムの外側に存在する。
偶像は神を模して作られたものを指す。偶像崇拝は、その「模して作られたもの」に対する信仰を指す。しかし、その崇拝は可知(システム内)の神に対する崇拝であり、不可知(システム外)の神への崇拝では無い。よって偶像崇拝は偽りの信仰であり、神の不興を買うことになる。

2010/10/20

東浩紀を読んで

批評家東浩紀はオタクカルチャー批評、ゼロアカ道場、ニコニコ動画に出演など、一見パフォーマンスに終始している印象を受けるが、彼の博士論文「存在論的、郵便的」を読むと、そのパフォーマンスは彼の「哲学」を実践する上での戦略なのかな、と思えてくる。

2010/09/06

批評の試み3

インポテンツのユートピア : イノセンス

 ロマンティシズムとイノセンスの関連を考える上で大切なのはイノセンスそのものではなく、イノセンスへの憧憬だ。なぜなら不可能なものへの憧憬こそがロマンティシズムなのだから。

 イノセンスが不可能である理由は、その不可逆性にある。イノセンスは時間が経つにつれてすり減ってゆくものであり、回顧できこそすれ取り戻すことはできない。

 ではロマンティシズムの対象として、何故イノセンスが選ばれるのだろうか?イノセンスを憧憬する動機とはなんだろうか?

 「不能感」がそうさせるのだ。 どこに行っても、なにをしてもシステムに覆われ底が知れている現実の世界において、あらゆる行為はシステムの内側に収まってしまうため、行為もまた底が知れている。底の知れたものをロマンティシズムの対象とすることは出来ない。あらゆる行為を軽蔑し、見限ったとき、「自分はただ見ているだけしかできない」という不能感が募ってゆく。

 イノセンスは、現実の世界で拭い去ることのできない不能感を全て許す場所として、想像の世界に立ち上がってくる。それゆえ、求めずにはいられない不可能な対象として「不能な私のゆるされる場所=イノセンス」を志向する、と考えられる。

 ところで、イノセンスを感じさせる物語(見ているだけの物語)には、「ライ麦畑で捕まえて」、「リリィ・シュシュのすべて」「限りなく透明に近いブルー」等があるが、不能感に苛まれるのは大抵男、あるいは男性的な女性だけであり、女の子(女の子的な男?)は遥かに逞しく現実の世界と折り合いをつけてゆくようだ。
 しかし「限りなく透明に近いブルー」のリュウは黒い鳥(=システム)を殺そうとするし、あまつさえ決して見ることの出来ない世界本来の姿を映そうとする。この意味で、「限りなく透明に近いブルー」はとてもロマンチックな作品だ。

2010/09/05

批評の試み2

ロマンとイノセンス

参考:ロマン主義

 ロマン主義の起源は、古典主義や教条主義の否定に遡る。一般、公、規則、システムよりも、個を重視したいという思いがロマン主義の始まりだった。自分はロマン主義の本質は「現状否定」にあると考える。その起源においても、古典、教条に縛られる「現状」を「否定」している働きを見る事が出来る。

 しかし、ロマン主義的否定は決して叶えられてはならないものだ。ロマン主義はあくまで個人的なものであり、その否定が完成して公的になった対象は、もはやロマン主義の対象にはなり得ない。

 以上から、ロマン主義を、「不可能な事柄の不可能性を知った上で投企する態度」と考える(村上春樹「海辺のカフカ」より)。叶えられることのない現状否定こそロマン主義だ。その性質から、ロマン主義は必ず悲劇を孕む。

 村上龍「限りなく透明に近いブルー」における「リュウの都市」は想像の世界(想像界)であり、その幻想は飛行機のジェット=現実の世界(象徴界)に破壊される。リュウの都市は現実を積極的に否定してはいないが、個人的なものが現実に破壊される場面はまさにロマン主義的と言える。

 作中に何度かリュウの「子供のようなまなざし」が言及されている。ここから、「リュウの都市」がイノセンスを象徴していると考えられる。とすれば、

 「リュウの都市」=想像の世界=イノセンス=ロマン主義の対象

 このことは、イノセンスの不可能性を示している。

2010/09/04

批評の試み1

ラカンのシェーマRSIを村上龍「限りなく透明に近いブルー」に適応する

参考:現実界・象徴界・想像界

・三つの世界

 限りなく透明に近いブルーは三つの世界が描かれている。仮にそれを想像の世界(想像界)、現実の世界(象徴界)、*世界*(現実界)と名付ける。想像の世界=リュウの都市、現実の世界=黒い鳥に覆われた世界、*世界*=ありのままの世界。
物語は、想像の世界が現実の世界に破壊され、絶望の渕にたたされたリュウが限りなく透明に近いブルーを通して*世界*を見る、という構成になっている。想像の世界はとても個人的なものであり、対する現実の世界はパブリックなものだ。

・二つのレンズ

 物語において、黒い鳥はレンズのような働きをしている。それは*世界*を「現実の世界」に変換する役割を果たしている。そして限りなく透明に近いブルーは、黒い鳥のレンズで歪められた*世界*(現実の世界)を、もとに戻して、*世界*本来の姿で見る特殊なレンズである。

・想像世界対現実世界

 黒い鳥に覆われた世界は、想像の世界を破壊するような力を持つ。物語内ではリュウの都市(想像の世界)を飛行機のジェット(現実の世界)が破壊する描写がなされる。
黒い鳥とは、システムのようなものだ。なので現実の世界とは、システムに覆われた世界を表している。村上春樹における綿谷昇(ねじまき鳥クロニクル)や壁(世界の終わりとハードボイルドワンダーランド)に相当する。システムとは具体的には、学校、会社、経済、就職活動、社会、言語、等。
 現実の世界の本質はシステムなので、意思を持っていない。現実の世界は、想像の世界を「そんなものあってもなくてもどうでもいい」というように、象がアリを踏みつぶすように悪意無く破壊することがある。
 例えば、自分の好きな音楽をやって食べて行こうという思考が想像の世界で、結局売れないとかいうのが現実の世界である。この二つの世界の戦いには、鶏と卵のような側面がある。現実の世界へのカウンターとして想像の世界が生まれる事が考えられる。J・K・ローリングがハリーポッターのようなファンタジー(想像の世界)を書いたのは、恐らく生活の困窮(現実の世界)へのカウンターという側面もあっただろう。

・物語が生まれる場所

 個人的な事柄VS世界の不条理という図式は良くあることで、やはり想像の世界と現実の世界のせめぎ合いから物語は生まれる(生まれ易い)のだと思う。そして、優れた強い物語は現実の世界の圧力を取り込んでさらに大きくなる想像の世界の働きから生まれるのだ、と思う。

・おまけ:*世界*は見えるか

 ありのままの世界は見る事は出来ないはずだ。例えば、人間は言語を獲得したその時から言語の内部でしか考えることが出来ない。(言語=システム、黒い鳥)どこかに言語で表せないことがあるかもしれないが、言語を用いて思考する限りそれが「あるかどうかも分からない」。