アマゾンの「オススメ」機能は、顧客の行動履歴から未来の需要を予測している。
何故こんなことをするかと言えば、もちろん利益をあげるためだ。
言い換えれば、利益を生む効果的なマーケティングには、顧客の行動履歴に基づく需要予測が必要だ(少なくともアマゾンはそうしている)、ということだ。
***
ところで、今のところ日本やアメリカはリバタリアンの国であり、個人(法人)における選択の自由と責任が重視されている。
***
行動履歴の分析を通したマーケティングは、個人(ターゲット顧客)の選択は過去の歴史に依存するという前提がなくては成り立たない。
利益最大化を至上命題とするリバタリアンたる法人が顧客分析を行い、それが一定の効果をあげているという事実は、多くの個人はリバタリアン足り得ないということを示しているのではないか。
つまり自身の選択は限りなく自由に見えて、その実、行動履歴に束縛されているのではないか。
あるいは、分析により行動が誘導されるのではないか。
2010/11/22
2010/11/21
否定神学
バートランド・ラッセル「西洋哲学史」、トマス・アクィナスのところ
以下引用 pp-450
***
(トマス・アクィナス著「反異教徒汎論」について)
神について多くの事をいいうるのであるが、それらは全てある意味において、否定的な主張である。すなわち神の本性というものは、神がこうこうではない、ということを通してわれわれに知られるに過ぎない。
***
ああでもない、こうでもない、というように否定的に神を定義することを、否定神学と呼ぶ・・・と東浩紀や佐藤優は言っていた。ホントか、と思ったらラッセルの著作にも同じような記述があるので、割とオーソドックスな考え方なのかもしれない。
東浩紀が否定神学に拘る理由は、彼の著作「存在論的、郵便的」によれば、ジャック・デリダの脱構築が否定神学を否定するものだから、だそうだ。
それに対して佐藤優の否定神学の興味は、ロシア正教の神に対する考え方が否定神学だからだ(文学界に載っていた)。彼はその考えに賛同している。
***
ところで、否定神学的にしか定義し得ない対象とはなんだろうか?
恐らくは、言語で捉えられない対象だろう。
以下引用 pp-450
***
(トマス・アクィナス著「反異教徒汎論」について)
神について多くの事をいいうるのであるが、それらは全てある意味において、否定的な主張である。すなわち神の本性というものは、神がこうこうではない、ということを通してわれわれに知られるに過ぎない。
***
ああでもない、こうでもない、というように否定的に神を定義することを、否定神学と呼ぶ・・・と東浩紀や佐藤優は言っていた。ホントか、と思ったらラッセルの著作にも同じような記述があるので、割とオーソドックスな考え方なのかもしれない。
東浩紀が否定神学に拘る理由は、彼の著作「存在論的、郵便的」によれば、ジャック・デリダの脱構築が否定神学を否定するものだから、だそうだ。
それに対して佐藤優の否定神学の興味は、ロシア正教の神に対する考え方が否定神学だからだ(文学界に載っていた)。彼はその考えに賛同している。
***
ところで、否定神学的にしか定義し得ない対象とはなんだろうか?
恐らくは、言語で捉えられない対象だろう。
2010/11/19
佐藤優を読んで2
佐藤優「国家論」
宗教と啓示について。
神は人間とは全然別ものなので知覚できない。人間の側からいくら考えてもだめで、神からの啓示によらなければならない。宗教という形で神(「神」は分からないので、まことの神でありまことの人であるキリスト)を良く知るよう心がけるのは、神の気まぐれであるところの啓示をキャッチするチャンスをつかむ為だ。
ということだけれど、これは人事を尽くして天命を待つということだろうか。
「平等は人の心の中に」というロシア人の言葉。
平等を実現することは無理だけれど、それは究極の憧れとして人の心の中にある。
無理だと分かっていつつ、それに向かって行くということ。やるだけやった後は人間の領域(因果関係のある領域)じゃねーや神様サイコロ振ってね!という態度。ぼくもそうありたいものです。
でもそれほど簡単ではない。リターンがゼロだと知りつつ努力することは簡単では無い。
この前環境系の先輩とこういう話をした。
「おれたちは二酸化炭素を数え上げてごはんを食べているけれど、だからなんだって訳じゃないんだ。環◯研の温暖化シミュレーションなんて嘘で。意味はない。それでもやるのは、二酸化炭素を数えているうちは、まだ環境は改善できるかもしれないっていう幻想をみんなでみることができるから。何やっても無駄だと嘆くよりなんぼかましです」
ここから得られる教訓は、究極的には無意味と分かっていても、何かの改善のため(?)考えたり、勉強したりすることは、精神衛生上好ましい、ということか。
宗教と啓示について。
神は人間とは全然別ものなので知覚できない。人間の側からいくら考えてもだめで、神からの啓示によらなければならない。宗教という形で神(「神」は分からないので、まことの神でありまことの人であるキリスト)を良く知るよう心がけるのは、神の気まぐれであるところの啓示をキャッチするチャンスをつかむ為だ。
ということだけれど、これは人事を尽くして天命を待つということだろうか。
「平等は人の心の中に」というロシア人の言葉。
平等を実現することは無理だけれど、それは究極の憧れとして人の心の中にある。
無理だと分かっていつつ、それに向かって行くということ。やるだけやった後は人間の領域(因果関係のある領域)じゃねーや神様サイコロ振ってね!という態度。ぼくもそうありたいものです。
でもそれほど簡単ではない。リターンがゼロだと知りつつ努力することは簡単では無い。
この前環境系の先輩とこういう話をした。
「おれたちは二酸化炭素を数え上げてごはんを食べているけれど、だからなんだって訳じゃないんだ。環◯研の温暖化シミュレーションなんて嘘で。意味はない。それでもやるのは、二酸化炭素を数えているうちは、まだ環境は改善できるかもしれないっていう幻想をみんなでみることができるから。何やっても無駄だと嘆くよりなんぼかましです」
ここから得られる教訓は、究極的には無意味と分かっていても、何かの改善のため(?)考えたり、勉強したりすることは、精神衛生上好ましい、ということか。
2010/11/08
偶像崇拝はなんでだめなのか?
佐藤優「国家論」
何故偶像崇拝してはいけないのか。
前提として、神は人間には感知できない。人間の属するシステムの外側に存在する。
偶像は神を模して作られたものを指す。偶像崇拝は、その「模して作られたもの」に対する信仰を指す。しかし、その崇拝は可知(システム内)の神に対する崇拝であり、不可知(システム外)の神への崇拝では無い。よって偶像崇拝は偽りの信仰であり、神の不興を買うことになる。
何故偶像崇拝してはいけないのか。
前提として、神は人間には感知できない。人間の属するシステムの外側に存在する。
偶像は神を模して作られたものを指す。偶像崇拝は、その「模して作られたもの」に対する信仰を指す。しかし、その崇拝は可知(システム内)の神に対する崇拝であり、不可知(システム外)の神への崇拝では無い。よって偶像崇拝は偽りの信仰であり、神の不興を買うことになる。
登録:
投稿 (Atom)