アイデンティティというよくわからないものは誰かの影響や、時代によっても変わるし、お腹が減ったかどうか、いらいらしているかによっても変わるし、決してその人を規定する程堅牢な物ではない。
就職する為には会社への共感が必要、と感じる。
その為に真面目に自己分析をしている人は大勢いるとおもう。
でも自己分析は行動履歴の参照でしかなくて、客観性はない。やがては無限の循環に陥ってしまう。
アイデンティティなんかそもそも無い、下らん。しかしそういったメタ視点を保ち続けていれば、システムに所属する事が出来ない。システムは思想の一致を要求する。それが出来なければ、捨てゼリフと共にメタへ、メタのメタへ、メタのメタのメタへ、上昇し続けるしか無い。
しかし、空の高みの空気は薄い。私達が地を這う社会的動物であることを忘れてはならない。
市場システムに接続してその効率の恩恵を授かる為には、どこかで幻想にコミットしなければならない。あくまで主体的に。
あくまで主体的に、それが問題。
2010/02/14
2010/02/08
2010/02/06
2010/02/02
暫定的な投稿
就職活動は、自分の複雑さ、なんだかよく分からない可能性を収束させる作業で、それは自由が強制される現在では自らの行動履歴への参照によってなされるけれど、忘れてはならないのが、決してその参照のうちに第三者が現れ最終的な審級を下す訳ではない、ということ。だから行動履歴への参照は無限参照にならざるを得ず、大学という就職予備校で客観的視点の大切さを学んだ私達は、その無限鎖の果てにある選択は原理的に永遠の暫定性を帯びる事を知っている。あらゆる自己決定はこれでよかったのか?という疑問符を付けざるを得ない。
1.
この無限の鎖を断ち切りたい。それはどのようにしてなされるか?
それは社会システムによってなされる。
それは暴力によってなされる。
社会システムは暴力の一部であるのか、暴力は社会システムの一部であるのか、それはよくわからない。
2.
暫定的な決定を下し続けた私達は、いつか仮定法過去に追いつめられる
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