2009/08/30

鳩山邦夫

文芸春秋のインタビューに対して

———鳩山さんは子供の頃から政治家志望で、選挙ポスターを見るとアドレナリンが出たとか。

鳩山「いま選挙ポスターを見るとインシュリンが出ますよ」

2009/08/19

スティル・ライフ2

池澤夏樹「スティル・ライフ」の感想。別にスティル・ライフ本文を読んでなくても分かる内容です。
テーマ:リアリティと偽のリアリティ

88ページの会話について。以下引用

「一万年くらい(昔は、)。心が星に直結していて、そういう遠い世界と目前の狩猟的現実が精神の中で併存していた」
「今は?」
「今は、どちらもない。あるのは中距離だけ。近接作用も遠隔作用もなくて、ただ曖昧な、中途半端な、偽の現実だけ」
「しかし、それでも楽に生きていけるように、人はそのための現実を造ったんだよ。安全な下界を営々と築いたのさ。さっきも言ったように、君の方が今では特別な人間なんだよ。」

******

 「心に直結した星」とは星から連なる一連の神話的物語、あるいは星の美しさそのもので、「狩猟的現実」とは生と死を分ける「仕事」と解釈する。

 これらの「遠い価値観」が併存していた。つまり彼らの生活にとって、生死を分つ仕事と神話的世界、想像、美といったものは等価だった。

「あるのは中距離だけ」と言われる現代はどうか。

 まず狩猟的現実(仕事)の面から考える。
 現代は、星の時代にはあったであろう部族的集団(つまり仕事、生活、精神の共同体)が解体されている。つまり仕事に失敗して肉体的に滅びる「わたしたち」が存在せず、そもそも「それをしなければ死ぬ」という仕事をしなくても、人間は生きて行く事が出来る。

 これらのことが何を曖昧にするか?それは生存へのリアリティだ。現代社会において死は病院、社会保障、縮小した家族、そして孤独によって多重に隠蔽された存在だ。わたしたちが普段死を、事に自分の死を「リアリティを持って」考える機会はあまり無い。
 現代は「生存のリアリティ」が減衰している、と言える。


 次に「星」について
 古代においてあったとされる「星に直結された心」に象徴されているものは、想像世界のリアリティ(「リアル」では無い)だ。
 科学、工学の発達、それに伴う合理化の時代は、魔法やまじない等の想像上のリアリティを払拭した。むしろ迷信の類いは「非合理」の元に悪と見なされる。
 しかし、想像上の世界そのものが無くなった訳ではない。それは芸術、神話、あるいは各個人の妄想等、確かに存在するが、古代におけるような、「生き死にを左右する程の圧倒的リアリティ」を持つ事はどうしても出来ない。
 現在は「想像的リアリティ」の権威が失墜している時代、といえる。

 ではこの二つのリアリティの減衰、いわば中距離化の何が問題なのだろうか。
 それは自分が何を為すべきか決めづらくなったということだ。

 人間には動物的役割と社会的役割があると考える。前者は動物としての人間の役割、つまり生存、生殖、適切な時期の死、等々。後者は高度に発達した人間社会という「造られた現実(安全な下界)」の中での役割だ。この後者の役割を、決める事が出来ない。

 何故か?そこには「リアリティ」という基準、有無を言わさぬ暴力的な視点が欠如しているからだ。

 仕事にせよ想像世界にせよ「生死を分つ圧倒的リアリティ」があるならば、それを決めるのは今程困難ではなかったはずだ。肉体的な死を避ける為に狩りに出る。旱魃を沈める為に、神の生け贄となって死ぬ。これらのことは戸惑いも許さぬほどクリアなことだっただろう。そしてそれらの行動は、人間の動物的役割とも直結していた。
 
 それでわたしたちはどうしたのか。「曖昧な、中途半端な、偽の現実」を作り上げた。少し変えて、偽のリアリティーと表現しよう。リアルとリアリティーは意味が違う。これらは誤解を恐れずに書けば「自己実現」、「社会貢献」、「スローライフ」、「エコ」というような言葉から想像されるような価値観群だ(この本が書かれたのは1991年なので、これらの例とは少しずれているかもしれない)。
 つまり、偽のリアリティーとは、それらを自らの役割(行動)の基底に据えることは出来るが、そこからさらに掘り下げて考えると何も無い、というような価値観群だ。そこには、圧倒的で暴力的で有無を言わさぬリアリティーは無い。

 これらの価値観、偽のリアリティーがシミュラークルとして世界に溢れている。その事を、池澤夏樹はある意味で怒って、そしてあきらめているのではないか。

 こういった状態でどのように行動の指針を決めて行くかというのは、また別の話。

2009/08/14

学校での恋愛への恋愛

新海誠「秒速5センチメートル」
細田守「時をかける少女」
および東浩紀、斎藤環、大澤真幸らのいろいろな議論からの印象

 恋愛に純化した物語において、学校や学生、特に中高の学校生活を主題としたものが多い。それは何故か?

 学校とは。(中学、高校)
 共学においては、隔離された狭い空間の中にほぼ同数の男女が押しやられている。その殆どが異性への興味を持っている。そういったものが、美醜、能力の高低、所得の差、欲望の差等に関係無く、集合体を作っている。

 欲望のベクトルを持った個体が高密度に集合している。それは特異でかつ、共通の体験だ。そして想像しやすい環境だ。
 
 そういう環境で、恋愛を謳歌した人もいた。好きになった人に振られた人もいた。告白さえ出来なかった人も、人を好きにならなかった人もいた。
 そして人は一度限りの奇妙な時間を体験した後、否応無しにそこを通過して、別のどこかへと去ってゆかなければならない。

 一度限りだった。しかし、他の可能性もあったのではないか。物語は、その可能性を提示する。
 物語の世界に溢れる学校生活は、あるいは理想化された恋愛は、こころのどこかに引っかかっている、「わたしにもあったかもしれない可能性」を目覚めさせ、それを想像することを可能にする。

 その「想像しうるわたしの可能性」は、あらゆる立場(引きこもりであれ男子校出身であれ、あるいは外国人でさえ)を超えて物語への共感を生む。多くの人が秒速5センチメートルを見て何かを「くらった」のも、各人の可能性の中にあの情景があったからではないのか?

 ぼくはこうだったかもしれない、ああなるかもしれない、と考える事が、他人(生身の人間でなくてもいい。二次元でもいい。)への共感、つまり他人の中に自分の可能性を見いだすということに繋がっている。

 そしてそれは、論理を超えたことだ。わたしは◯◯である、◯◯に所属し・・という、わたしを覆う言葉の外殻、論理の碇は、「可能性」によってanyoneの集合に溶けてゆく。
共感の世界においてはもはやわたしはわたしの歴史から解放され、物語に存在する属性のデータベースに接続している。

 なぜ物語は、想像可能なわたしの可能性の中でも特に恋愛を語るのか。
 人々にとってそれは困難で甘美で低次で高次な欲望だから。というのもあるが、恋愛が属性の選好と密接な関係があることに注目する。


 愛とは。
 その人の属性を愛する事なのか?存在するその人を愛する事なのか?

 ぼくの好きなAさんの属性が全て言葉で表せるとすると、Aさんの属性を全て備えてしかもAさんよりも可愛さの属性が上であるBさんが現れたら、ぼくはAさんからBさんに乗り換えるだろうか?

 ぼくがAさん自身を好きだとする。ではAさんの属性が全て失われたら、ぼくは現実的な愛をAさんに抱けるだろうか。Aさんの属性が全て失われたそれはぼくにとってAさんと言えるだろうか?

 上の二つは原理的に同じことだ。つまり、Aさんに言語化されない属性があるかどうか。もしそれが無いならば、ぼくはAさんからBさんに乗り換えるし、全ての属性を失ったAさんはもはやAさんでは無い。

 では言語化できない属性とは何か?よく分からない。ただそれは、恐らくは祈りあるいは倫理として存在しているのだろう。

 言語化可能な属性に還元できる範囲の恋愛(つまり属性の選好?)ならば、それはもはや物語の属性の集合に取り込む事が出来る。
 それも個人への愛だけでなく、その周辺のシチュエーションも言語の及ぶ範囲で可能だ。

 ぼくたちが言語化可能な属性の選択による恋愛を繰り返すなら、それは物語の中で原理的に再現できる。そこにリアリティのある「想像可能な可能性」を埋め込むことが出来る。より感情を揺さぶるものへ、より需要のあるものへ、より欲望をかき立てるものへ。


まとめ
 ほぼ万人共通の、想像可能な可能性のデータベース、その環境が高校。その行為が恋愛。それは無数の夢の残滓が漂っている注文の多いMatrixといえる。
 その母体から生まれる物語はデータベースから属性を出し入れするだけで、組み合わせ論的に無数に生産する事ができる。わたしたちは、可能性を満たす為に、それを条件反射的に、動物的に消費している。

2009/08/07

東浩紀

東浩紀
「あの映画を見て観客が感情移入するのは、男も女も関係なく、間違いなく、キキでしょう。そしてそれは、単純に、キキが黒服を着て赤いリボンを付けて猫を連れているからでしょう。それは今のギャルゲーに連なる感性です。宮崎駿はそういう点でそれこそ動物的に敏感な人で、ずっとオタクに媚び続けてきた人でもある。」

斎藤環
「それは完全に同意できる。」

2009/08/01

世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド

村上春樹「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」

システム対人間という村上春樹作品のテーマ

「それの要素であるわたしはそれを内包している」

ぼくの想像するシステムは、上に書いたような相互入れ子状態だけど、村上春樹はそうじゃないみたいだ。
海辺のカフカなんかは(善悪?)二元論だけど、この作品だともう少し複雑だ。

完全な閉じた輪としてのは主人公の内部に存在していた。
でもそれは完全であるが故間違っていた、ということだ。
心を意図的に(?)消すという事で変化の無い永遠を得るっていうのはちょっとまずい、と。

でもやっぱりこの世界観はファンタジーだ。別名、論理を欠いた三段論法
それでもいいのかもしれないな。この本面白いし
でもぼくはもっとリアルな生生しさが好きだ

主人公は言う
「心は本質であり切り離す事は出来ない」

———町の壁は人工的なものであり、それは町の(系の)本質だ。完全なものは閉じていなければならない。

社会システムはいろんな意味で完全ではないし、そうはなり得ない。
何故か?
システムの構成要素が不安定だからだ。
それはわたし(たち?)のアイデンティティが相対的という所に根ざしている。
自分の存在理由は、時と場合で変わってしまう

空転する自我を抱えた人間が構成する社会は生まれたときから不安定なはず

そんな中でぼくたちはわたしたちの落し子であるシステムに翻弄され続ける
村上春樹はこの作品中でそれを「壁」と表したけど、ぼくはそうは思わない
それは波であり、ぼくたちは水のようなものだ