横浜美術館「フランス絵画の19世紀」
平日の昼間だったので、客層はリタイアした老夫婦が多い
しかしぼくよりちょっと年上ぽい女性も何人か見かける
美術館にくるような女の人はみんなおしゃれでいい
ぼくは全身ユニクロだったな
ちょっと引け目を感じていた
ロマン主義と呼ばれる絵画が沢山展示されていた
洪水の町で妻子を引き上げようとしている男の絵があって、
男の目の必死さはそれはそれは必死だったけど
女の体にはどこからか光が当たってて、
ポーズなんかとってて筋肉なんかもすごくきれいだった
でも洪水の時にそんなのってないよな。ぼくはしらけた
絵を見るたびに段々とやるせない気分になっていた
そういうのはあんまりにドラマチックで、多少の嘘をついているように見えた
構図の美しさ、造形の美しさの為に、真実を塗りつぶしているように思えた
でもそれはきっと作者の美的感覚がダセーとかではなくて
ぼくの生きている時代のせいだ
ぼくは19世紀フランスのロマンティシズムを身につけていない
ロマンティシズム
「挑んで破れる事がロマンティシズムの本質」だと
村上春樹の作中人物は言っていた
そのとおり、だが、
ロマンティシズムの本質をロマンティシズムを排して表現すれば
「自覚なき嘘つき」
てくてく歩いて、出口につくと
ぽつんとセザンヌのセント・ヴィクトワールの絵がかかっていた
足を止めてまじまじと見た
赤茶けた岩土がむき出しになり、所々に背の低い植物が生えている
空は水色と若草色(!)
若草色の空、そんなものはきっと無いだろう
しかしこれが嘘(ロマンチックに言えば、セザンヌの祈り?)だとしても、
まあいいかなと思う
なんでロマンチストの嘘はぼくをがっくりさせて
セザンヌの嘘はいいよいいよってひいきしちゃうのか
ぼくにもよくわからないけど
カッコ付ける為の嘘と、どーでもいい嘘との違いかな
まあほんとは好みの差かもしれない
ヤベー死ぬって時に「バァーン」ってポーズ付けてる女と
若草色の空のどっちがすてきかっていう
セント・ヴィクトワールの絵を結構長い間見ていたけど、
ふと、なんでセザンヌはこの山にこだわったのか気になった
これはもう想像するしか無いけど、やっぱり好みの問題なのかな
絵の説明にはこうあった
「晩年のセザンヌは、南仏で孤独な創作活動を行っていた」